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わざわざ言うことの意義と虚脱

2022-09-29
前提であることを言わねばならぬ
「ない」と言えば「あり」、「あり」と言えば「ない」
「水」のように容器に合わせて形を変えらてこその理解

誰しもが小学生の頃、「手のひらを太陽に」という曲を唄った経験があるだろう。もしかしたら年齢によって唄う経験も失われてきているのかもしれないが。アンパンマンで有名になった、やなせたかし作詞、いずみたく作曲、歌は宮城まり子、1961年(昭和36年)に制作され、1962年にNHK「みんなのうた」で放送された楽曲。当初は反響もない曲だったようだが、1965年(昭和40年)になってポニー・ジャックスが歌いレコード発売され、その年の紅白歌合戦で歌唱し大きな反響を得たとされている。1965年といえば戦後20年、高度経済成長の社会の中で「生きている」という前提をみんなが忘れ始めた時期であったのかもしれない。「手のひらを太陽に すかしてみれば まっ赤に流れる ぼくの血潮」という歌詞には、自らの身体に血流があることの発見である。いわば前提となることを敢えて「言った」歌詞なのである。「かなしいんだ」「うれしいんだ」「愛するんだ」という歌詞もまた、人の感情は「生きている」ことが前提であることに気付かせてくれる。命の実感が薄れてきた時代に、「生」の意味を再発見させる歌だったのだろう。

「生」を自覚するには、宿命たる「死」を自覚する以外に方法はない。言い換えれば「死」を意識してこそ、「生」を貴重なものと認識できるわけだ。前述の曲が人口に膾炙して60年近くが経過した今、まさに「生」の自覚なき時代になってしまっているもではと危惧する。前提として当然のことを人々が自覚するためにあるのが詩歌、だと言える。その詩歌はもとより、文学そのものが社会での影を薄くしている。だが望みがないわけではなく、若者たちの短歌ブームなどは「生の自覚」をことばに乗せて求めようとするゆえのことだろう。こうした発見の詩歌のことばは大いに意義あるものだ。これに反して、社会には虚脱する言葉も溢れている。無いことを有るかのように言う、空虚な言い訳めいた言葉だ。真実を隠すために十分に吟味されたとも思えない言葉で「ハリボテ」のように形作る。「聞く力」という言葉は、それが無い体質だから前提ながら言っているに過ぎないのが明らかだ。詩歌に比べたら次元が違いすぎる言葉、僕たちは注意深くことばを吟味していく必要がある時代なのだろう。

丸にも四角にも三角にもなる「水」
柔軟な思考こそが平和を形作る
言葉に騙されず、ことばを信じて。


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