訓読という行為ー解釈・翻訳としてー和漢比較文学会大会シンポ
2022-09-25
中国文の直訳的翻訳外国語が日本語として読める解釈行為
「訓読」そのものが日本語の文体を鍛え育てたことも
第41回和漢比較文学会大会が、オンライン開催された。新型コロナ第7波の感染状況が見通せない中、計画段階からオンラインによって進められて来た。本年度は対面を復活させる学会もあるところ、地方や海外からの参加も容易な「オンライン」を活かしていく方策として一つの選択であるように思う。個々の参加者の出張費の節約、また会員数減少が問題とされ会費収入の減少が見込まれる学会経費の節減にも有効な手段であるといえる。昨今は大学施設で学会をするにも、費用を請求されるご時世であることも手伝っての選択だ。さて初日は標題のように「訓読」という行為についてのシンポジウムが、長時間に渡り行われた。『新釈全訳日本書紀』(講談社2021)が本格的な注釈ながらも、訓読が付されなかったことを問題意識の出発点として議論は始まった。日本では長年の蓄積から「訓の体系」が編み出され、中国文である漢文を自由に読みこなすことができるようになった。特に『日本書紀』の訓は「字音語」が無い「意訳的」な訓読であり、漢文の一般的な訓読とは異質なものであるなどが、基調講演や報告によって示された。
また「国語教育」の立場から「訓読の学び」のあり方がどのようになっているか?という報告もあり、個人的には大変に興味が惹かれた。現在の学習指導要領では、小学校高学年から中学校1年生まで、漢文に親しむことを意図して「音読」により「訓読文」の学習が設定されている。中2になって「漢詩」を「原文」で扱い、中3で「原文」と「訓読文」の差を意識した学習となり高等学校へと連なる。「探究」という色彩が強くなった今回の学習指導要領の改訂で、高等学校では一層「中国など外国文化との関係」を「国語」の上で考えることが強調された。以上のような報告に対して「音読」から導入される学習段階の成否、また原文を示さず「訓読文」のみを「音読」して、学習者の日常の言語生活といかに関わりがあるかという点について僕は質問を投げ掛けた。オンライン学会として「質問フォーム」への記入のみで発言はないとされていたが、議論の展開から発言を求められ、前述の内容を「例えば唱歌(校歌なども含み)の歌詞の文語を意味がわからないままに唄う音楽の学び」などを例に、「親しむ」という学習目標のあり方の意義を投げ掛ける発言をさせてもらった。「訓読」は歴史の中で「書記言語」の「解釈・翻訳」的な行為であるところ、「訓読文」そのものを「音読」するという「歴史の流れには反した学習過程」があることへ疑義が示される意見も出された。結果、日本語・日本文学の中に生きて来た「声」として通行・慣習化される「訓読」の効果と、まさに「解釈・翻訳」として開発されて来た「体系化」の問題が双方向に絡み合いながら発展して来たのが「訓読」の実態であることも炙り出せたように思う。こうした「訓読」への理解を、特に中学校・高等学校の先生方が深く認識することが大切であることも再認識するシンポジウム内容であった。
「漢文」を「国語」で学ぶ意義の基礎基本
「文化」として「国語」を教えるという教員の意識を醸成しないと
「訓読」という偉大なる文化的遺産を将来に引き継ぐために
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