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あらためて沖縄に寄り添うために

2022-09-13
「ちむどんどん」本土復帰前後の沖縄から
米国統治下の沖縄に行った叔母のこと
そして高校教員として修学旅行の引率を何度も

会員である短歌結社『心の花』誌・9月号に6月の歌稿が6首、「特選」となった。「選歌ルーム」欄の評においては、さらによくするための指摘・助言もあったが「沖縄の復帰50年を考えよ」というテーマを読んでいただけたのは、思いが伝わったという実感が持てた。幼少の頃に未だ米国統治下であった沖縄に、同居していた叔母が行くことになり「親族初の渡米」と家族の一大ニュースになったのを鮮明に記憶する。帰京後に撮影してきた写真や沖縄査証を見せてくれ、渡航するとはこんなに大変なのだと子ども心に思ったことがある。見せてもらった写真の多くは、「沖縄米軍基地」の現実のようなもので、B52戦略爆撃機が飛び立つところを室内から「隠れて撮った」と叔母は僕に懇切丁寧に解説してくれた。叔母の口上は幼少の僕には「面白く」感じることが多く、やや大仰に言っていたのであろう、「撮影がバレると捕まってフィルムが没収される」という趣旨のことまでも教えてくれた。その真偽のほどはわからないが、ベトナム戦争の基地として重要な拠点であったのは確かだろう。叔母が体験し僕に伝えてくれたことは、まさに「歴史」そのものだったのだ。

僕自身が高校3年生になっての修学旅行先が、在籍していた学校で初めて沖縄になった。戦跡を訪れ平和を祈り、やや疑問にも感じながら「摩文仁の丘」で集合写真を撮ったことを記憶する。「ひめゆり資料館」などではもっとじっくり見学したかったが、荒々しい男子校の連中が長くいい加減な気持ちで滞在するのは、むしろ憚られた気持ちもあった。その後はリゾート地に宿泊し、ただただ友人たちと楽しむ修学旅行であった。この際の自らが周囲に同調するために取った「平和への思い」のいい加減さ、それ以後の僕はそんな自分が許せなくなった。そこが「いい加減」であるから再び「戦争」の惨禍がやってくる、そんな罪悪感を持ちながら大人になった。この思いは、教員となって沖縄に生徒を引率する際にあらゆる形で晴らそうとした。「ひめゆり資料館」では学級の生徒らに「ひめゆり学徒の手記をじっくり読もう」と提案し、バスの集合時間に遅れた。ガマ(第二次世界大戦当時、島民が避難した自然の地下洞窟)での暗闇の体験では、感受性の強い生徒は身動きができなくなり、背負って担ぎ出したこともある。その沖縄が本土復帰して50年、果たして首都圏の高校の多くが修学旅行先に選んできた意義は、どれほど「沖縄へ寄り添う」ことに活きているのだろうか。

基地問題
唯一の地上戦が行われた日本国内の地として
「沖縄」にあらゆる犠牲を押し付けてきていることにまずは自覚的になるべきだ。


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