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「・・・ない」という言い方を考える

2022-08-05
「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」(藤原定家)
「花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった」(吉川宏志)
残像とか微妙で繊細な心の動きとして「存在する」つまり「・・・ある」ということ

「肯定かー否定か」「プラスかーマイナスか」学生たちの記述などに頻出する考え方の枠組みである。高校までの小論文とかディベート、小学校以来の「意見表明の型(・・・について賛成〈反対〉です。なぜなら・・・)」として教え込まれるのか?毎年、1年生の記述した文章を読むとこの思考方法が大変に気になっている。はてまたTVのバラエティ番組で芸人が「○か✖️か」という札を上げる方式、「・・・・について賛成か反対か」を問う「劇場型選挙」の方略でもある。明確に「結論」を出すという意味でわかりやすく、提唱する側が毅然と決断力があるように見える方法だ。所謂「二項対立」という思考方法であり、比較対象を設定し基本的な立場を明らかにする方法として有効ではある。「子供/大人」「自然/人工」「集団/個人」など、やはり高校などで「評論文」を読む思考の枠組みとして教えられる方法でもある。入試における「選択式正解」を求める際には大変に有効であり、「受験国語」における「魔法の杖」のようなものとも言えるかもしれない。だが「対立項」は明らかな線引きで「対立」しているのだろうか?深く慎重に考えてみれば、「共通項」も多く「・・/・・」とスラッシュで明確に”区切らない”ことにこそ真実が見えてくるものだ。

冒頭に掲げた二首の短歌は、「・・・ない」という語法を使用した表現になっている。前者の定家の歌を「花(桜)も紅葉も否定するマイナスな表現」とするのが、前述した学生の記述によくあるパターンである。だがあまりにも著名な鎌倉時代のこの和歌には、既に多様な解釈が施されてきた蓄積がある。むしろ「なかりけり」ということによって、「(花も紅葉も)残像として顕然と読み手の心に映像として刻まれる」という解釈が穏当なところだろう。また二首目の吉川宏志さん(宮崎県出身歌人)の歌は、結句に「告げられなかった」と否定語が来ることから、学生の中には「(結論としてこの歌の主体は)愛を告げられなかった」と「否定」のみの意味で解する者がいることに驚かされる。いや、それほど入試用にしか通用しない「評論文読み」が定着している「成果」というべきだろうか。愛を告げると決めた主体が歩く「花水木の道」は、長過ぎず短か過ぎずちょうどよい時間を要する距離であったから「愛を告げられた」と読むのが一般的であろう。くり返すが、「(長過ぎたら)間延びして躊躇した」とか「(短か過ぎたら)話題を反れて言い出せない」とか、読み手の心には「告げられなかった」際の原因までもが残像として浮かぶのである。「文学の言葉」は少なくとも「額面通り」ではない。いや「額面通り」を敢えて意識させた後に、壊して反転することで「効果的」な表現となる。いまこれを「文学の」言葉と書いたが、実は「日常の言葉」でも、この破壊反転と対立項の共通点が読めてこそ「相手の真意がわかる」ということなのだろう。

政治家の言う「・・・はなかった」は「・・・はあった」ことを意識させる
二項のみの思考は「差別」そのもので「・・/・・」と壁を作り「一方を排除」するのである
ゆえに二項の思考を立てつつ壊し「文学」が読める「人の心がわかる」若者を育てたいものである。

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