写真と記憶とー保存されているものを活かす
2022-07-25
スマホが日常携帯化して誰もがいつでも写真をスマホには「容量」があるが人間の記憶はどうなのだろう?
蘇るあのシャツ・蘇る親戚の面々
現代社会はスマホの普及によって、いつでもどこでもどんなことでも「写真」に残せるようになった。たぶん「誰かがカメラを所持していなければ写真が撮れなかった」時代から、「写ルンです」など「箱型簡易カメラ」の時代を経て、時間進行とともに世の中の写真は激増しているはずである。それだけにスマホで撮影して「終わり」という簡易さが、「写真は貴重なもの」という意識を薄くさせたのも確かである。正直なかなかスマホ内の写真を整理することはなく、振り返る機会も少なくなったのではないだろうか。「カメラ(写真機)」の時代であれば、フィルムを街のカメラ店に出して現像が出来上がるまでが楽しみで、仕上がると様々に身近な人と話し合いながら楽しんだものだ。僕は「写真撮影」という「保存方法」をことさら大切に思っていた傾向があり、小学生の時に無理矢理に母にせがんで「カメラ」を買ってもらった記憶がある。小学校の学級内で「新聞委員」を務めていたこともあり、区内の公園などを「取材」と称して出かけては「撮影」をして「記事を書く」などしていた。「事実を写真に残す」という意識が大変に強かったと振り返ることができる。
母が久しぶりに昔の写真を引っ張り出したというので、ともにしばらく見て語り合う時間をとった。主に母方の親戚との幼少時の写真で、見るたびに当時の記憶が蘇ってくる。時折不思議に思うのは、このように写真があるから記憶も鮮明に刻まれ続けてきたのか?それとも記憶が特段にいいのか?自分では判断がつかないことである。あらためて写真を見ると、その際に着ていた「シャツ」がお気に入りであるとか、その際に「叔母さんが迎えにきた」とか鮮明に記憶として蘇るのである。スマホでは「写真保存容量」としてデータ量に制限があるが、人間の脳の「保存容量」の無限さを感じる。またそれぞれの写真に映る人々が、蘇るのも大きな意義だ。親戚の人々は「こういう人であった」など、既に鬼籍に入った人などを回想することに魂の供養という意味合いもあるだろう。更にいえば、母方の親戚を辿ると江戸時代生まれの曽祖父、明治初年生まれの曽祖母の存在を確認できて、「近現代150年」の歴史の中に自分が生きていることが位置付けられる。このような意味で誠に写真を見返すことは、重要な人生の確認作業だと思う。小学校の修学旅行の集合写真などもあって、「日光東照宮」を背景に学友が顔を並べる。思わず「当時はこの女の子が好きだった」などと思い返し、叶わぬ恋の経験も「再読」することができた。「過去」は決して失われるものではない、「あの日々」の蓄積の上に僕たちは生きているのである。
笑うのが下手だった少年時代
多くの人々に支えられて笑顔の自分になって来た
生きることの年輪を時に再起動させる必要がある。
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