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「気持ち」「心情」とは表現を読むことだった

2022-07-05
「登場人物の〈気持ち・心情〉を考えよう」
小中高と「国語」で問いかけ続けられた不思議な問い
「国語」を嫌いにならないために

前期授業もあと1ヶ月(4週)となった。特に月曜日はGWの飛び石連休が平日だったせいで進みが1週早く、既に13周目(全15週+試験)を迎えた。今月「海の日」の月曜祝日で1週分が調整される。まとめの時期を迎えて学生たちにどんな力が付いているかが、そろそろ担当者として気になる頃だ。毎回の講義レポートには各回の成果を記してもらうのだが、その内容が不十分と思われる点についてコメントを返している。昨今はコロナならずとも教学システムが進化し、講義レポートの提出もWebシステムを介して行なっている。教室で紙媒体のやり取りはなく、講義外学修にてPCで作成した課題を提出する方式だ。90分の講義には前後180分の講義外学修を課すことが、単位習得の条件として文科省からも示されており、なるべく講義内では其処に集まっているからこそできることをしている。このWebシステムによって、コメントによる指摘は大いに学生たちに返しやすくなった。この日の講義に向けて課題にコメントを付していて気になったのは、課題の和歌を概括的に「・・・・・という心情が表れている」と記すものが多かったことだ。和歌表現の「どこをどのように解釈したら・・・・・という心情が読み取れた」と自らの「読み」によって「心情」は形作られる。安易に現代語訳を見るとか単なる印象やプラスーマイナスの理屈で、キメの粗い捉え方になっていることが大変に気になる。

毎年後期の学部一学年全員を対象にした科目で、「国語の嫌いだったところ」を書いてもらっている。その上位3傑は「(正解の曖昧な)気持ち・心情を問うこと」「音読」「感想文」あたりである。僕自身のこれまでの国語教育分野の研究対象として、このような点の解消と方法の開発に取り組んできた。その際たるところが「音読・朗読」であるが、敷衍して「国語嫌いになる諸要素の解消」を提案したいと考えている。問題は学習者である児童・生徒のみならず、指導者たる教師がそれぞれの意義や方法を心得ていないことだ。「気持ち・心情を問う」ことで言えば、試験があるために指導者も授業で「一つの正解」に着地してしまう。ひどい授業になると、ワークブックの唯一無二の「正解」を教えるゆえに、学習者は「国語は暗記科目」だと勘違いする。問題は指導者になる人材に「(国語でいう)気持ち・心情」とは何かをはっきりと自覚してもらうことだ。この日に援用した有名な例、瓶(ペットボトル)に液体が半分程度入っているのを見て、「まだ半分もある」と発言する登場人物と「もう半分しかない」とする人物では、「気持ち・心情」が違う。「まだ・も」「もう・しか」に着目して、液体に対する「嫌悪と好感」等の「心情」を読むことができる。もちろんこの短い文だけでは、発言者の状況がわからない。さらに前後の文脈があると、「心情」のあり方が輪郭を持つようになる。僕たちは他者と「ことば」だけを頼りに意思疎通をしている。あなたの「気持ち」だと感じるのは、「ことば」の使い方なのである。SNS等で単発的・名詞的な表現だけに頼り、絵文字などでその「ことば」の未熟さを補っていないか?学生たちに「文学の読み方」を講ずるとともに、自らの言語生活への意識喚起も伝えた。

「ことば」を発せず聞かず理解しなければ人間が壊れていく
文学を舞台に「相手の気持ちをことば(表現)から読み取る」ことを学んでいる
「ことば」「文学」を疎かにすれば、社会が悪辣に暴力的になるのは必然である。


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