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自分のことには自分で気づくー自己チュータリングという方法

2022-07-02
先生が添削してくれた作文
それが入賞して後ろめたい気持ちになったという学生の体験談
自分で自分の傾向を多様性の中で気づく

 附属図書館改修の際に「アカデミックライティング」の支援機能を備えたいと考えて、母校の「ライティングセンター」なる学生支援部署を訪問したことがある。センター長なる先生には、誠に丁寧に支援方法についてご教授いただき感謝の念にたえない。残念ながら本学でこの機能は未整備であるが、機会あれば「方法」として取材したものを根付かせていきたいと思っている。当該センター長の先生がその方法を体系化して書物にもしているので、講義で活用できないものかと思っていた。本年度は「大学教育入門セミナー」を社会・英語専攻の先生方とともに担当している。ここは格好の機会が訪れたと他の先生にも相談し、講義内容を「アカデミックライティング」に集中し、学生に「自己チュータリング力」をつけさせたたいと講義予定を組んだ。自分で自分の文書を見直し、その傾向を把握しより適切な「学術的文章」に直していける力ということである。

 小学校の「作文」から大学の「レポート・卒論」まで、なぜか「指導者の添削」という方法がこれまで横行して来た。だがそれで果たして学習者の文章作成能力は上がるのだろうか?という疑問が甚だ多い。以前学生に「国語の嫌いだったところ」を書いてもらった際に、次のようなものがあった。「読書感想文を書いたら先生に添削され、そのままコンクールに応募され入賞してしまった」という趣旨のことだ。当該学生が記した衝撃の事実は「入賞は大変に自らが後ろめたく傷ついた」という内容だった。「添削」をされた段階で「自らの文章」ではなくなる。その「直された」文書には決して愛着は湧かないだろう。意図せず当該学生は「ズル」でもしたかのような気持ちでその後、大学生になるまでこの事実を開陳できず過ごしていたことになる。「手を貸す」ことは、育とうとする芽を摘む。この学生の「告白」もあって、「添削は罪」ですらあると思うようになった。そういえば、僕が小学校の家庭科の宿題で「給食袋を縫う」といのがあって、クラスの多くは明らかに母親に縫ってもらった代物を提出していたが、僕は自ら縫って底が互い違いな酷い仕上がりの代物を提出した。そのことが影響して5段階で「家庭科2」の成績をもらった時、教師への不信感を持った記憶がある。「自らの足で登る」ことを教師は評価しないのかと。

「学術的文章として適さない例」を示し自己添削
その後、講義内の級友と「7分×5セット」のセッション
赤字で自ら修正した「学術的文章」を学生たちはきっと大切にするだろう。


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