「作者ありき」より「表現」に考えよ
2022-06-25
「清少納言が書いたから・・・」ではその性格や性質はどこから得た情報なのだろう?
「文学史」が〈教室〉で教えられる際の誤解
「歌会」という方法は、実に「文学」をよむ上で機能的で適切に作られていると思う。出詠された短歌を「無記名」一覧にして、「作者」の情報は消去して「表現」のみに焦点化して批評するからである。「情報」はあくまで「三十一文字(みそひともじ)」のみ、その表現力が問われ読み手に伝わり共感や驚愕を感じさせるものであるかどうか?を語り合って、「このような点を言いたい歌ではないか」とか「作者の・・・のような心が読める」などを語り合う。くり返すが勝負は「三十一文字」のみ、「このような事情だから」という付帯状況の言い訳を添えるわけにはいかない。この「方法」こそが、まさに「文学を読む基本」といってもよいだろう。夏目漱石・森鴎外や芥川龍之介がどんな人物かは知らず、「女ったらし」な面だけが一人歩きする太宰治の『走れメロス』という作品を中学校教科書では「信実と友情の物語」として教える。いま現在活躍中の作家であっても「村上春樹の意図」などは計り知れない。歌会と同じように僕たちは彼らの小説をその「表現世界」の中だけで味わい想像し受け止め、個々の多様な思いを抱くものだ。
「国文学史」という科目を担当していると、前述のような思いを強くし受講者に誤解なきようにと啓発する機会が多い。なぜか中高の勉強を続けてきた学生たちに聞くと、「清少納言はこんな人だったからこう書いた」とか「吉田兼好だからこそこんなことを書く」といった立場からの物言いが多い。特に古典の場合は、作者の情報が十分に判明しているわけでもなく長い享受過程で背鰭尾鰭がついたり、都合のよいように捏造されたケースも少なくない。たぶん中高の学習の中で「基礎知識」として「国語便覧」などの作者情報(これ自体が研究上の想定・仮説により書かれたものだが)を覚え込ませ試験で出題するという流れが、今も健在なのだと思うことがしばしばだ。試験の採点が簡単で「暗記することが学習」とする旧態依然の学習観から現場の教員が抜け出せていない。「清少納言」や「吉田兼好」を引き合いに出したのは、「随筆を書いた」ゆえに自分の思うことを「筆に随い」書いたのだから人物像を取り沙汰して語ることが多いからだ。だがその「人物像」こそが、『枕草子』や『徒然草』なる形で文字情報として遺された幾多もの写本を校訂して成された「本文」から読み取れた内容の集積なのである。となると「人物像」を根拠に考えることの大きな論理の顛倒が明らかなことがわかる。もういい加減、「学習は暗記」という殻からまず「教員」が抜け出すことが肝要であろう。
『方丈記』と『徒然草』の比較読み
双方の「無常」の主張への違いはどのようなことか?
「文学史」こそが「文学教材」への向き合い方への歪みを矯正する道なのだろう。
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