fc2ブログ

題詠「声」ー宮崎大学短歌会6月歌会その2

2022-06-22
声こそ命
実際の声でなくとも心に自然の中に
人間の喉の構造とか総合表現として

宮崎大学短歌会6月2回目の歌会。4月から対面歌会を再開し、附属図書館にて隔週火曜日と定例化にもなってきた。出詠12首、出席10名、オンライン参加2名、とハイブリッド方式も定着した。さらに投票には卒業生も参加し、短歌へのつながりを保つ機会を提供している。18時より準備を始め、ほぼ18時半から歌会を開始。図書館の閉館の21時まで、片付けの時間を考慮し20時50分ぐらいまでは様々な歌評が展開する豊かな時間だ。歌の提出にも今回からWebフォームが作成され、詠草係の負担も軽減された印象だ。また図書館で使用する部屋には、オンラインに接続できる教室の光景がリモート撮影されるカメラが常設され大変に有効に利用している。だがその接続にまだ慣れず、準備や設定に時間を要することを今後は解消してゆければと思う。ともかくPCやスマホなどの機器の扱いにおいては、学生に学ぶことが少なくない。こうした機会があれば、むしろ学生たちが行う操作を見習う姿勢が必要だと思う。

さて詠草の歌では、様々な「声」が表現された。「CD」「お別れ」「しゃがれ」「低音」「風雨」「囁き」「トーン」「長電話」「記憶」「電車音」「灯」「変声」などが素材となった。(なるべく作品そのものの表現が特定されないように記した)「声」といのは誠に不思議なものだということをあらためて考えさせられた。「声」にも外に表現されるものと、心内で響くものがある。音読と黙読に差があるように、実際「声」を発しなくとも「声」は存在する。このような意味で「声」こそが「意識」であり「命」ともいえるだろう。また発すればその場で消えていく「声」というものは、記憶の中でも消えてゆきやすいという性質があるのを発見した。録音が残っていない「牧水の声」を僕が聞きたいと思い続けているように、消えてしまった声の価値は高い。それでも最近は簡単にスマホなどで動画が撮影できる。写真のみならず動画によって、声も保存する機会が増えた世の中になった。それこそは「短歌」そのものが「声」であると考えたい僕の主張を、あらためて深く考える契機となった。

高齢者などは声を発しないと
喉が細くなり栄養が摂れなくなるとも
「声」ありて高度の「言語」を獲得した「ヒト」の動物性なども考えた。


関連記事
スポンサーサイト



tag :
コメント:












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック:
トラックバック URL:

http://inspire2011.blog.fc2.com/tb.php/4582-c9e12c64

<< topページへこのページの先頭へ >>