コロナ禍で失っている身体性ー声と表情
2022-06-14
唇を適切に動かした発音表情で相手に伝えるというコミュニケーション
「声」を「悪者」にして来た代償から逃れ出でよ
知らぬ間に、居住している県の感染者数への関心も薄らいだ。2ヶ月前までは前日の感染者数を在住県と東京ぐらいは十分に覚えていた。TV報道もいつしか感染に関するものは後回しにされ、必然的に社会活動が活性化されるようにできているようだ。このように報道が「変化」した時こそ、市民として十分な意識を持って注意深く情勢を見極める必要があるだろう。大学でもかつてあれほどお世話になった「オンライン」「遠隔」という言い方が、どこかに飛んで行ってしまったかのようだ。感染者数の多寡に関わらず「原則対面」の方針が貫かれている。このような状況を「普通に戻った」と言って、喜んでばかりいられるだろうか?とふと考えることがある。少なくとも今年度の新入生の「マスクのない顔」の全貌を見たことがない。教室に居並ぶ学生たちの顔と名前を一致させ覚えるのは僕らの仕事の基礎基本であるが、その際の情報の紐付けに変化が生じているように感じる。顔の場合は「眼から上」つまり、眼球と頭髪の情報がほとんどである。僕の場合は特に、講義中に「このような表情と喋り方でこのような内容を発言した」ことで名前と紐付けする習慣があるせいか、意識して感染対策上で指定席にしている学生に出席を取るなどして一致させるよう努めている。「マスク」がある意味で「半仮面」になっており、他者への認識をいささか曇らせている。
またこの2年間に「悪者」にさせられた際たるものは「酒」と「声」だ。「酒」を飲めば騒いで「声」をあげて飛沫が飛ぶという図式である。「酒」の問題はまた別の機会に述べるとして、「教室の声」の退行が避け難く進行しているように実感する。グループ別に対話をしてその内容を発表する際にも、なかなか教室全体に届く「声」で話す学生は多くない。「教室」の換気は行っているが、「大きな声で」という趣旨のことが言いづらい環境下にある。自ずと学生の表情も乏しく、まさに「半仮面」で淡々と語る印象が否めない。これには学生たちに責任があるわけではない。少なくとも語る内容を受け止めるべくマスク上の眼を注視するよう努めるが、その眼が生き生きとしていない実感がある。やはり「伝えたいことを喋る」というのは、顔全体が運動体として機能してこそなのだとあらためて認識する。既に「学習活動」の多くの分野が「文字」偏重であった上に輪をかけて、「声」を中心とする「身体性」が失われて来ているのではないか。僕が一つの研究分野として来た「音読・朗読」が失われると、学習者の思考能力も低下することになる。誤解のないように述べておくが、何も一概に「早くマスクから解放されよ」と言っているわけではない。「眼と耳」とともに「表情と鼻と口」を含めた総合力で、人は人と繋がることを忘れるべきでないことを強調しておきたいのである。
「声」を使わないよう規制された「授業」から
「声も表情も」必要ないと勘違いされる怖さ
「巣ごもり」で体調が悪くなるように「声と表情」なき非情な人間関係を避けたいものである。
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