時間を橋渡す
2011-01-01
31日(金)大晦日の行動というのは、たいてい定型化している。それなりに早く起きて、残りの大掃除を済ませ、午前の遅い時間に実家へ出向く。そして菩提寺に行き墓掃除をしてから、近所の蕎麦屋での昼食が年越し蕎麦。既にビールなどをいただくので、その足で下町の名残ある商店街を徘徊。正月用の食品や肴など買って、ひとまず家に帰る。そんな大晦日前半は、今年もシナリオ通りに進んだ。新年へ向けての時間意識が、極度に高まるのがこの1日。今年を惜しみつつ、来るべき新年に想いを馳せる。実質的な時間としては何ら変わらない筈なのに、暦という時間枠の中で、人は時間を可視化しようとして、この1日を過ごすようだ。正岡子規が批判した『古今集』の巻頭歌にも、次のように歌われる。
年の内に春は来にけりひととせを去年(こぞ)とやいはむ今年とやいはむ
旧暦で立春が暦の新年よりも早く訪れてしまい、新年までの時間を「去年といおうか、今年といおうか」と詠むのである。しかも「春は来にけり」と完了・過去で述べており、立春から暦の新春までの間を「去年」か「今年」とどちらの呼称にしようかというのだから、歌人の時間意識は、「立春」からが新年か、「元日」からが新年かという迷いの中にある。子規が「くだらぬ」と批判した歌には、むしろ未だに日本人がこだわる「去年今年」
という時間に対する観念が集約されている。元日午前0時において「あけましてめでとうございます」と1秒差でTVなどが祝意を伝える現実に、子供の頃から違和感を覚えていた自分を再発見する。
何度か海外で「日本の新年」を迎えたことがある。1度はドーバー海峡を今は廃止されたホーバークラフトで渡り、波しぶきを眺めていた。あるいは、アメリカの大地を車で駆け抜けていたこともあった。時差の関係で、それぞれ夕方とか午前中とか、違う時間の中で「日出づる国の新年」に時間は達していたことになる。海外で1月1日午前0時までの残り時間を、「去年とやいはん今年とやいはむ」である。
夕飯は実家でいただき、正月用の重箱に煮物なども頂戴して帰宅。そこからは紅白歌合戦で、「年のうち」の残り時間を使い切る。今年は1人で観るので、どうだろうと思いつつ、Twitterを見ながら、寸評を加えていると、様々な反応があって楽しかった。やはり1番反響も大きかったのが、桑田佳祐さんの復帰。個人的に大ファンであるので、感激の思いを書き込んだ。「あのライブやプロモ的な芸風がいい」、そんな笑いと洒落のあるコメントに感嘆する声、「圧倒的な表現力が最高!」エレキ片手に新曲を披露した桑田さんに讃歎の声など、1人で観ているのに、何人かで話ながら観ているような感覚になった。つぶやきの方向は、桑田さんのみならず、「どこまでが衣装で、どこからが舞台装置?」という、歌よりも衣装に重点が置かれる歌手への批判。「歌詞と衣装に何の関係が?」という疑問の声も。「衣装のコメントしかないやん」等々。1人Twitter紅白もなかなか面白いものだった。
そして午前0時、日本では2011年となった。(小欄自体が過去の書き付けであることに自覚的になる今。)
卯年に新たなる飛躍を誓う。
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