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読むのではなく語ることからー音読教材研究

2022-05-27
音読劇『ニャーゴ』
三匹の鼠と猫の心が通う物語
場面を創り表情と動作で読むから語る声へ

今週から4年生が、公立学校での教育実習に入った。よってゼミも3年生のみとなり、何をしようかと学生たち自身に発案させることになっていた。すると学生たちは、小学校2年生の教材で宮西達也さんの『ニャーゴ』の音読劇を創りたいと提案があった。教材も全て自分たちで準備し、附属図書館の「itanoma(板の間)」を予約していた。ゼミこそが仲間たちと今自分たちに必要なものは何か?と考えて学びを深める場であろう。個々人の色を尊重しながらも、仲間との学び合いでむしろ個々の特長を伸ばすべきと考えている。このような趣旨に学生らが呼応してくれたのは、誠に嬉しくも逞しい展開である。教材研究や作品解釈は机上の理論はいくらでも言えるが、自らが作品そのものを「体験」するまでの深度はなかなか成し得ないものである。もちろん「音読劇」をしたからといって「作品の本質がわかった」などと、安易に短絡的な考えで実施しているわけではない。だが単に「字面を読む」だけではない、「作品世界を語る」ことが特に小学校教材では重要であると考えている。

所謂「教科書読み」は学校特有な「音読」であり、一般的な「朗読」と比べると違和感を覚える読み方である。句読点で均質的に休止し常に同速度による濃淡緩急のない、日常口語にない特有な読み方となる。その目的の多くが「正しく読む」ことに置かれており、「場面を再現して読む」意識は低い。「黙読」が中心的な読み方として社会的に定着して120年ほどが経過し、たとえ「音読」をしたとしても「字面読み」の声による再現でしかない。その120年は、語りの芸能をはじめとして演劇的要素を「教育」に取り込まない「歪な音読」が続けられて来た歴史でもある。ゆえに、小学校教員を目指す学生らには「音読劇」を通じた教材研究や解釈が求められるべきであろう。「下読み」では未だ「字面」から解放されない、場面ごとの台詞の心情を様々に検討するが多様な坩堝に迷い込み混迷を深める。理詰めでの表面的な「理解」しか指導者がしていなければ、「多様な解釈」とは名ばかりで「教材を体験」する学習には至らない。登場する先生・鼠たち・ニャーゴ、さらには語り手・心の声などの配役が舞台稽古のように設定されてこそ、「生きた場面の声」になるものだ。作品の見せ場「ニャーゴ」の鳴き声をいかに読むか?たぶんゼミの学生たちは、この教材を生涯忘れ得ないであろう。

他のコースの学生らも2名参加
定期的な朗読会なども附属図書館で実施したい
「生きた声」で教材作品を「生きた解釈」をしてこそ多様な学びを創る基礎となる。


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