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沖縄復帰50年に思うこと

2022-05-17
「九州・沖縄地方」に住んでいる自覚
宮崎に疎開して工芸品を伝承した人々も
「外国に行って来た」という叔母の言葉を思い出しつつ

幼少の頃、両親が忙しく叔母と同居していたこともあって叔母から諸々のことを教わった記憶がある。当時から絵画に勤しみ個展を開くほどの腕前である叔母は、多方面に好奇心が強く社会にも批判的な考え方をしていると子どもながらに思っていた。確か僕が気に入った1枚の港の絵をもらって、新築となってできた自分の部屋に飾っておりその構図は今でもよく覚えている。そんな叔母が「外国に行ってくる」と言って、祖父母を含めた大家族であった一家で初めて渡航することに大きな衝撃が走ったことを記憶する。「外国」という行き先は沖縄、取得したパスポートを見せてもらい、両替したドル札を目にして子どもながらに外国とはどんなところなのだろう?と想像をしていた。旅行から無事に帰宅した叔母が、かなり写真を撮ったと現像の仕上がりを待った後に見た写真に再び衝撃が走った。「これはホテルに潜んで撮影した。見つかったらフィルムを取られたかもしれない。」などとまことしやかに語った離陸していく「B52戦略爆撃機」の写真であった。まだ幼少の僕がまさに初めて「第二次世界大戦」との「時間的物理的地続き」を実感した写真であった。されどそこは叔母の云う「外国」であった。

沖縄復帰から約10年後、高校生になった僕は修学旅行でしかも5月のこの時期に沖縄を初めて訪れた。初日はその後の首都圏高校の標準コースとなる「南部戦跡巡り」である。ひめゆりの塔・摩文仁の丘でのガイドさんのお話は実感がこもっており、バス内での説明の際にも涙ぐむ一幕もあった。やんちゃな男子校の所謂「ツッパリ」連中は気にもかけずという雰囲気で、お望み通り旅行後半でプライベートビーチもあるリゾートホテルに宿泊した。夜の自由時間に「プロレスごっこ」に興じ、日本の英雄レスラーが米国の悪役をやり込める図式を楽しみ、僕はなぜか「レフリー役」になっていた。「勧善懲悪」の狭間に立たされた気分で、いつしか演じていてやるせない気持ちになったのを記憶する。さらに10年の月日が経過し大学卒業後に教員になってからも、沖縄への修学旅行を幾度も引率した。進学率向上を意図した特進クラスを担任している際に目指したのは、現地の目線で戦跡を巡る意識が根付くこと。ひめゆり資料館で手記を熟読する生徒らが、涙ながらに読み続ける姿に「特進」などという命題より大切な教育ができたと自負した覚えもある。また女子校に転勤した後に「ガマ(主に南部に点在する地下洞窟のことで、戦時中に住民が避難し多くの人々が命を落とした戦跡)」にガイドさんとクラスごとに入る体験は貴重であった。中には洞窟の暗闇の中で動けなくなる生徒もいて、担任教員として狭い通路を背負って外まで連れ出したこともある。大学教員となってからも、「九州沖縄地区国立大学法人」の情報交換会で琉球大学担当回を訪れたこともあった。この僕が人生で持ち得るすべての記憶のうちにも、常に沖縄は大きな問題を抱え込みながら先日5月15日で復帰50年を迎えた。

直行便のある宮崎ー沖縄
再び訪れ現状の問題を考えたい
戦後を生き続ける僕たちすべてが沖縄を当事者として考えねばなるまい。


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