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変化と過去を蘇らせる短歌

2022-05-16
「じぶんの変化が、人を変化させたりするし、
 だれかの変化が、じぶんを変化させたりもする。」
(糸井重里『今日のダーリン』ほぼ日手帳2022年5月15日の頁から)

人間の細胞はこうしている今でも新陳代謝をくり返し、新しく生まれ変わっているのだろう。細かいメカニズムは細胞学の分野の方々にお任せして、単純にそれ自体に「物語」があるように思う。宇宙への想像も同様であるが、所謂「理系」の分野において考えたくなる「物語」は少なくない。細胞の新陳代謝こそが「生きる」ことであるとすれば、人間は常に「変化」していることになる。ところが日本の学校や社会では、「同じ自分でありなさい」ということを求められる。ある子どもが創造的な” やんちゃ“をしたとしよう、先生は「あなたはそんな人ではなかったでしょ」と諭す場面によく出会う。だが新陳代謝をして創造をしたのだから、むしろ”やんちゃ”こそが必然であり「面白い!」と褒め讃えられるべきかもしれない。「多様性」だと簡単に口にするが、それを認める原点はここにあるだろう。つまり「生真面目」というのは「応用が利かない」ということで、いつも現状維持では進歩もなく細胞次元でいえば固着し停滞し後退を余儀なくされる。

冒頭に記したことばが、この日の手帳の頁に記されていた。前述した内容と考え合わせるならば、個体の新陳代謝が連鎖的に他者を新しく変化させる可能性があることになるだろう。昨年末に結婚した姪っ子の花嫁姿の写真が母の元へ送られてきて、そのアルバムに見入った。人生の門出の笑顔は純粋で幸せに溢れている。自ずと自分たちの写真を妻が出してきたので、あらためてじっくり見入った。当時の思いが蘇るとともに、変化して来ている夫婦の時間を確かめることができた。こうしたことを考えるとやはり、人生にはアルバムが必要なのである。同様に最近は、過去の記憶を短歌に詠むことを実践している。つまり心のアルバムを開き直し、記憶の写真から当時は短歌創作をしていなかった後悔する細胞を新陳代謝させているわけである。すると仕事を引退してからの父はやや精彩を欠く生活をやむなしとしているが、過去を蘇らせれば実に「働き者」であったことが実感できたりもする。人生はトータルで山もあり谷もある、ならば寝る間を惜しんで働いていた父が、今はたくさん寝ていても罪はないのではと思えてくる。しかしながら、細胞は衰えてしまうだろうことが心配だ。僕たち周囲の家族が「変化」することで、父の変化を促すべきではないかなどと考えている。

殻に籠った思考を破ろう
今朝もまた新しい朝が来た
短歌のことばに励まされ、今日もまた新陳代謝の1日としたい。


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