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「バカじゃない」ことばの力学の退行

2022-04-26
「バカじゃない」の真意は何が言いたいのか?
「いや、そうではないだろう」という反語としての裏の意味
心を形にしたことばゆえに文法では定められない文脈上の意味がある

たとえば恋人から急に告白されたとしよう、思わず「バカじゃない」などということばで反応をしてしまう場面は映画やドラマでよく観る光景だ。通常、僕たちはこの発話をした人物の真意として、「好きな人からの急な告白に驚き、照れ臭いのも隠すために反発的に『バカ』という罵声的な表現を使用しその場を凌いだ」と解釈するだろう。時に「ことばの額面通り」に解釈しふられたと思う人物がドラマに描かれるかもしれないが、視聴者としてはそれこそ「真のバカじゃない」と思う二重構造の演出になるような気もする。いつからであろうか?学校などで「バカじゃない」などということばを教師が児童・生徒に対して言えない環境となった。もちろんコミュニケーションなき品の無い人権侵害のような物言いいは、いつの時代でも慎むべきであるとは思う。だがしかし、かつての昭和の時代であれば「バカやろう!」などと部活顧問が指導する光景はどこにでもあった気がする。僕はソフトボール部の顧問をしていたが、近隣の学校の名物監督で試合中などに「バカやろう!」を連発して指導する先生がいた。それは明らかに部員たちへの愛情表現であったように周囲も嫌な感じはまったくせず、むしろあのように生徒らへ親身に指導したいものだと憧れに思っていた。

中高教員をしてきた経験の中で、部活指導の状況などは明らかに変化してきた。練習中にあまりにやる気が見えないので「帰れ!」と顧問教員が言ったら「本当に帰ってしまった」という笑い話のような真実があった。だが現在の状況では「帰れ!」などと言えば、保護者がクレームをつけるのは必定な世の中になった。古文のようにこの「帰れ!」をことばを補って解釈するならば、「(あなたはそんなやる気のない部員ではないはずだから、そんな姿勢で部活をしているなら)帰れ!」という愛の鞭としての発話と解釈するところである。前述した「バカやろう!」もそうであるが、ことばの背面に「いや!あなたはバカじゃないだろう。やればできるはずだ。」という親身な愛情を読み取るべきである。だがこのような表現が避けられる世の中になって、言語の解釈の幅が大変に狭まってしまったようにも思う。あくまで「ことばは額面通り」にしか理解されなくなってしまった。そんな言語文化上の”退化”が、進行しているようにさえ思う。古来から「疑問」なのか「反語」なのかの解釈が論争になっている和歌がある。それを文脈の上でどう捉えるか?そんな国文学講義を1年生で実践し背後にある「愛情の意味」が解釈できる学生を育てたいとあらためて思った。

「月やあらぬ春やむかしの春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして」(在原業平朝臣)
人の感情は二項対立で結論が出るものにあらず
「バカじゃない」と言える間柄を意図して作らねばならないのはいかがなものだろう?


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