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余白あっての社会でありたい

2022-04-23
講義後の学生との雑談
同僚との仕事外の語らい
核心をより美しくする余白の役割

新学期の全面対面講義が開始されて、2週間が経過した。引き続き、手指消毒・座席の間隔・換気などを講義する教室では心掛けて行うようにしている。晴れれば爽やかな新緑から流れ来る風に、心地よく講義を進めることができる。1年生の担当科目が多いせいか教室は講義開始前から静かで、学生たちもマスクをしつつ「喋る」ことでの飛沫対策を心得ているということなのか?昨年までのオンライン講義と違うのは、講義に「余白」ができたことだ。早めに教室に行ってプロジェクターにタブレットを繋ぎ準備を終えてもまだ開始のチャイムが鳴らなければ、しばらくは微妙な時間が教室に流れる。1年生ゆえにまだ開始時刻に遅れる学生も少なく、いっそ早めに講義を開始するような流れで、雑談のマクラから話し出す感触を思い出しつつある。そういえば、なぜか?オンラインでは冒頭の「マクラ」や雑談などを話すことが減少していたことに気づく。同様に講義終了後もオンラインなら瞬時に学生はPC画面から退出し消えていくが、教室なら質問に来たりする流れで学生と雑談をする機会も増える。人間社会で肝心なのは、実はこの「余白」のような時間なのではないかと最近思っている。

同僚との会話もそうだ。仕事の話ばかりしていては、やはり仕事そのものも円滑に運ぶとはいえない。僕らはどうしても研究室で個々に籠るので、同僚と意義ある時間を持つのも機会は限られる。ましてや時代とともに忘年会・新年会や歓送迎会などの職場の交流の場そのものが、過去のものとして葬られて来た社会の風潮がある。そこにもってきてコロナに急襲された社会は、さらに個々のつながりで宴席の場を持つ機会さえも排除してしまった。まさに余白なき空洞化した芯のみがカラカラと乾いた音を立てて、油も注されずに空転しているような職場が多くなってしまったのではないだろうか。僕自身の信念として「社会性がある教員(人間)」というのは、ライフワーク的なテーマであり、それを担保してくれるのが酒宴の語らいであるのは言うまでもない。まさに先ほどの「空転」の比喩の潤滑油となるのは、「酒なしにして何の楽しみ」という訳だ。コロナによる個別隔離的な社会習慣が、個々の人々の社会性までも剥奪してしまう。場合によると社会性がなくとも「どこが問題なのか?」と言わんばかりに意識の極端な低下を招いているともいえる。そんな意味で、僕たちは今一度個々人の潤滑なつながりを意識して生きるべきだと思う今日この頃である。

人と人とが語らいあってこそ文学あり
教育もまた人と人とがつながることに他ならず
「0コロナ」があり得ないとしたら、僕らはもうそろそろ慎重ながら動きだしいいはずだ。


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