牧水の母と妻と酒と
2022-04-17
牧水「お母さん、私も随分ともう酒を飲んできたから、これから、少し慎もうと思うよ。」母マキ「インニャ、酒で焼き固めた身体ぢゃかる、やっぱり飲まにやいかん。」
故郷の日向の坪谷を離れようとしない母マキとともに沼津に住みたかった牧水
周知のように若山牧水は43歳の若さで肝臓・胃腸を患いこの世を去った。若かりし日の激しい恋、その苦悩を埋めるための酒。どうやら医師である父親もかなりの酒豪だったらしく、自身が脳卒中を患ってもしばらくすると酒を飲み、むしろ回復してきたと豪語する様子を牧水が記している。牧水が未だ十数歳で酒を勧め、当時の男女に対する時代感でいうと母や姉の心配をよそに父と子での盃を早く交わしたかった様子も窺える。牧水の母は、これを憂えるばかりではなかったようで、どうやら自身もかなりの酒豪であったようだ。晩年(大正14年)になって牧水が収入を得るために揮毫旅行に九州を旅した際、79歳の母マキと41歳の牧水との会話が冒頭に記したものだ。揮毫旅行で各地を巡れば、自ずと人との付き合いで酒量も多くなる。さらに朝鮮半島まで足を伸ばしたことも含めて苦行となり、牧水の身体は患いの度合いを深める結果となってしまった。そして数年後に牧水は母に先立つこと1年にして逝去することになるが、母は其の報を日向の坪谷で受け取ったという悲しい結末であった。
しかし牧水の生き方は、自らを貫いた感がある。酒に関する350首あまりの歌も、恋に苦悩してできた数多の歌も、そして故郷や自然を意識した歌も、すべて自らを知るため自らの「霊魂」に触れたいがためであると、牧水自身が「歌を詠む態度」という文章に書き遺している。特に「痛いばかりに相触れて、はつきりと『自分』をつかみたいからである。」というあたりに「痛いほど酒そのものに触れた」ともいえるであろう。妻・喜志子の眼を伺う様子もなくはないが、喜志子も死が迫る1ヶ月前ぐらいから、主治医と相談し薬に代えるように酒を与えることを許している。歌人・若山牧水が今にして名を遺すのは明らかに妻・喜志子の深い苦労の支援があったからであるが、牧水が自分が生きたいようにやりたいようにすることを尊重している点が大きいようにも思う。さらにいえば、自らの雅号に「母マキ=牧」を冠して歌人として歩んだ牧水、冒頭の会話に象徴的なように、母こそが豪快に自らの生き様を貫けと言っているかのようである。果たして1年という親不孝となった牧水、今にして僕がこのように逸話を語ることができる人生であったわけである。
子どもたちの前でも楽しい「お話」を多く聞かせたという牧水
数々の度を超えた逸話はあるが、不快な酔い方をせずあくまで自然な陶酔
沼津に墓のある牧水だが、分骨し日向坪谷に母とともにも眠っている。
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