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平和をペンで訴える物語ー文学が生きるために

2022-03-18
「文学は危機」なのであろうか?
旧態なものを懐古・復帰させるだけでは
生か死かの瀬戸際で訴えることばの力

「ペンは剣よりも強し」この言葉を小学生の頃から意識していた。それは僕が通っていた幼稚園のすぐ隣に全国でも名だたる超進学中高一貫男子校があり、その学校の校章がそれであったからだ。下に描かれた「剣」を上から「ペン」が封じるイメージ、未だ戦後30年ぐらいの時代の社会風潮と相まってその理念は大切なのだと子どもながらに感じていた。自由解放的な学校で僕ら小学生が校庭で遊んだりグランドで野球をしても怒られず、決して教室も清掃が行き届いているわけではない。中学受験の際に親や塾に勧められたこともあったが、結局は受験もしなかった。それでも教員になってから公募採用があって、既に他校で教員だった僕は果敢に受験をしたことがある。最終選考まで残って多くの先生方に囲まれるような面接を経験したが、やはり此処で教員をするのが幸せかどうかには疑問に思った。もちろん先方も大多数の眼で見ていたわけで、僕のそんな素性を悟って不採用としたのだろう。だが実家までチャイムが聞こえるその学校を、いつもどこかで意識しているのは今でも変わらない。

「ペン」が象徴するものは、単に「書き物」だけではない。口から放たれる「ことば」を含めて人間が生身で表現できるすべてを指すと考えてよいだろう。もちろん「論理」も「ことば」で構成されるのだが、「感情」に訴え「人を動かす」のはまさに「文学的物語」である。「平和とは何か?」という堅苦しい論説を2時間読むより、「戦時に生きる生身の人」が放つことばが演じられる舞台を2時間観た方が明らかに人の心は動く。昨日の小欄でもウクライナのぜレンスキー大統領が他国の議員を対象に、先方の国民として琴線に触れる演出を十分に施した「物語的手法」で訴える演説のことを書いた。当該二国を対立項として語るのは好ましくないが、明らかに歪めた論理だけを吹聴する侵攻している側の国の首長のことばとでは大きな隔たりがある。「ナラティブ(物語的)」がいまあらためて21世紀の平和に必要であることが明らかにされているとも言えるだろう。一方で学問・教育の分野で「文学」の扱いが、軽視されつつある傾向が否めない。「文学は社会に役立つのか?」という成果主義的な指標ばかりが重視されるからだろう。そこで僕たち文学研究者は、旧態な研究を懐古的に復帰させようとする動き方で果たしてよいのだろうか?とも疑問に思う。世界の平和が危機にある今こそ、あらゆるジャンルを超えて「物語のことば」こそが人の心をつなげるものだと自覚をあらたにすべきである。

「ペン」が書き記す渾身の「ことば」
口から放たれて人の心に浸透していく
平時から豊かなことばの使い手として生きることが平和の原点でもあろう。


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