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今ここにある一瞬を生きて

2022-03-08
祖国から避難する人々
そして祖国を護ろうとする人々
「この一瞬(ひととき)を生きる」ということ

新型コロナ感染拡大による「まん延防止」が、宮崎県では昨日から解除になった。県知事が会見で説くように決して「安全宣言」ではなく、依然感染者数は高止まりで火種はあらゆるところにある。だが僕たちは、普通のことが普通にできる日常も取り戻さねばなるまい。2022年の春は「今」しかないからだ。その新型コロナに関しては、報道だけはすっかり下火になった。報道番組もワイドショー系も、こぞってウクライナへのロシア侵攻について喧しく語っているからだ。もちろん、世界平和のために現状を知ることも大切だろう。だがその報道の構成や出演者の物言いが「戦争のあるべき姿」を語ることで、どこか「戦争」そのものの肯定になるような違和感を覚える。「戦争」は決して野球解説ではなく、戦術戦略や攻防について客席から観るようなものではない。「解説」するべき姿勢の根本において、常に「平和を創る」という思考が含まれているべきと思う。国の姿勢や対話交渉の問題などについて安易で野次馬的な発言が見られるのも、我々祖国の衰退の顕著な兆候であるようにさえ思う。

ウクライナの市民たちの戦火で怯える映像を観るたびに、あまりにも心が痛む。ある女性が「この今ある一瞬を生きるしかない」と字幕で翻訳され語るのを観た。元来が人間は誠に弱い存在、生きることを肯定的に捉えなければ「今日明日」にもどうなるかわからない儚い命なのである。こうした無常観は日本古典文学では中世・鎌倉時代に多くの作品で語られた。それは武士の世の中が到来し、武力で社会体制が一変してしまう世情になったからだ。だが生物上の本質的に命が脆弱であることを前提にすれば、人と人とが諍い争い命を奪い合って社会体制の情勢を決めるのは明らかな蛮行であることを歴史は語っている。「戦争経験のなき戦意は昂進する」という言葉があるが、近現代の智を得たのであるならば「強い」ということが儚く弱い個々の命を自覚することだと気づくべきである。多くの文学が、「弱さの自覚」を今も説き続けているはずだ。ゆえに僕ら一人ひとりが「今ここにある一瞬」の弱い命を動かすために、「平和」を意識して日々の一歩を大切に生きるしかないのだろう。

今ここにある「平和」を創る意志
市街地でミサイル攻撃を受けた男性の映像
耐え難き痛みの映像から僕たちができることは「平和」をペンで語ることだ。


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