ごっこ遊びとやさしい学校ー昭和にもあった個別最適
2022-03-04
「戦争ごっこ」に「サムライごっこ」「ウルトラマンごっこ」に「仮面ライダーごっこ」
「ドリフごっこ」で活路を見出した僕として・・・
あってはならぬことの真実を理解するには、その体験をすべきなのだろう。文学・小説に描かれた虚構が現実以上の真実だとするならば、ある種の「体験」として学ぶべきと以前から考えて来た。例えば「国語」の定番教材でも、漱石『こころ』における「Kの自死」について、中島敦『山月記』であれば、「虎となって友を殺めてしまうかもしれない心」を体験することができる。だがそれを単なる机上の思考で終わらせてしまう大変に勿体無い学習である場合も少なくない。第二次大戦終戦から77年、僕たちは戦争を知らない子どもたちだ。「どんなことがあっても戦争はいけないことだ」と日本も世界も学んだはずだが、年とともに「経験」をした人は必然的に少なくなる。今にして思えば、僕が子どもの頃は「戦争ごっこ」「サムライごっこ」などがよく行われていた。駄菓子屋でプラスチック製の銃や刀剣などの玩具は定番であり、一定の年齢になると「モデルガン」などを競って買う雰囲気もあった。「コンバット」など米軍の独軍との欧州戦争を題材とした人間ドラマもTVで放映していた。また時代劇は盛んにゴールデンタイムに放映され、人が平然と斬られることの理不尽や不埒な悪行をしている権力者が暴かれ裁かれる勧善懲悪を日常的に眼にしていた。「ウルトラマン」は地球を侵略しようとする宇宙人との戦いで、「仮面ライダー」は人間社会が悪に改造されることから逃れる物語だ。いずれも「ごっこ」遊びが為されていたが、どこかで「なぜ人間は戦うのか?」とか「侵略という欲求は何なのか?」という人間の黒い欲求を「ごっこ体験」として学ぶことができていたのだ。
このような勧善懲悪を脱構築したのが『ルパン三世』の登場であった。「泥棒」が主人公、頭は切れるが女ったらし、「ワルサーP38」という銃を所持しているが決して人は殺めない。むしろ世界中で私腹を肥やしている欲望の悪魔から、美術品などを盗み出しその価値を世界に知らしめる。ある意味で『ルパン三世』は善悪二元論から思考を脱却させる画期的な発想のアニメであった。このような「ごっこ」を大人が大真面目にやって茶の間を笑わせていたのがドリフターズだ。「戦争」も「サムライ」も「忍者」も「盗賊」もコントの題材としてよくあったように思う。もちろん「学校」も定番コントとしてあって、僕などは現実に叶わないのだが加藤茶のような言動を実際に学校でしたいという願望をいつも持っていた。小学校低学年の頃、僕は早生まれのせいかあまり活発な児童ではなく、現在でいう「いじめ」とも言える行為を受けることもよくあった。だが学級内の権力者をねじ伏せる方法を発見した。それは「ドリフのような道化を演じる」ことだった。学期末のお楽しみ会で班ごとに出し物をやることになり、そこで銀行強盗の芝居をすることになった。僕は加藤茶のような銀行員役、銃で脅迫されている際に急に「ちょっとだけよ」の音楽を流し、強盗を撃退するという役柄だった。そんな加藤茶のような言動が、その後もガキ大将に受け入れられ、僕はやっと学級内で市民権を得ることができた。
「小説」でも「ごっこ」でも虚構の体験から学ぶもの
体験的な学びと多様な人間の立場を経験的に学ぶ場が必要だ
附属学校園共同研究における「やさしい学校」から考えたこと。
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