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場における相互作用ー待遇性ある言語特性に短歌は生きる

2022-03-03
虹の色は何色か?
普遍的な心的言語
西洋言語は個体・名詞として物事を捉えるのだが

家族でも職場・学校の友だちでもいい、先にある2人が話していたとしよう。その会話に後から入る際に、「今この2人は何の話題を話しているのだろう?」と詮索する思いが働く。会話に急に飛び込んでも、にわかにその会話に参入することは難しい。また一定のテーマで会話をしていると、急にその内容に齟齬が生じることがある。それは相手たる人が、自らの中でこちらが気づかぬ間に話題を変えてしまった場合である。こちらは以前の話題だと思って話し続けるゆえに、会話内容に齟齬が生じる。少し先になって、「今・・・のこと話している?」と問いかけて初めて、話題が合一する。また「あれ・これ・それ」を多用して会話する場合、話し手と聞き手に齟齬が生じることもある。「こそあど言葉」の指示内容が明確でないままに、自分はわかるが相手はわからないという場合である。このように言語とは、あくまで「文脈」の中にあってこそ「意味」が生じる。有名な「私はウナギだ。」という発言者に対して、その「文脈」つまり使用される「場」がわからなければ異常だと判断するかもしれない。だが「蕎麦屋の店先」だとすれば「カツ丼」でも「親子丼」でもなく「うな丼」を注文する際の発言だと周囲は平然と理解することができる。

所属大学の多言語多文化教育研究センター主催のシンポジウムに、オンラインで参加した。先日、韓国ドラマを題材にした短歌について、比較言語学の立場からオンライン歌会を作者の俵万智さんを含めて実施した韓国語の先生も発表者であった。冒頭に記したような言語学の基本的な認識の問題に発し、最後は短歌が表現する言語のあり方が示され大変に興味深かった。中でも東洋の言語は「場における相互作用」に焦点を当てる傾向で動詞的であり、西洋の「個体」に焦点を当てて名詞的なものと対照的であると云う。先に示した「私はウナギだ。」の文も場合によれば「私は」も省略され、「ウナギ!」だけを発話する場合がむしろ日本語としては自然かもしれない。「蕎麦屋という場に置かれ入店し席に座る」という場の相互作用が、主語も動詞も要らずに発話に意味を持たせることができる。英語ならば「Can I have・・・」とか「I would like・・・」などと主語と意志を表現する動詞が焦点化された名詞を補助するだろう。シンポジウム発表への質問として、こうした日本語の「待遇性」について指摘をした。短歌の解釈とは、三十一文字に含まれる表現をヒントに、どれほどの「場の相互作用」や「待遇性」を読めるかが解釈の要諦となる。言語学の立場から短歌を見つめる、大変に良い機会に巡り合ったと思う。

他にも英詩の”ryhm”や”iamb”などの音韻に注目した発表も
教育学部の壺の中だけでなく、多言語多文化の中で短歌を考えて行くべきだろう
誠に言葉は面白い!


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