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短歌と演劇との交差点ー言葉を絞り出し、こぼれ出る過程

2022-02-25
「それを表現というのか現象というのか」
「すでに短歌あるいは科白というかたちになった言葉に、
 感性を委ね切ってしまっては、いけなくて。」(宮崎の劇作家・演出家・役者のTwitterより)

酒でもお店でも、はてまた医師とか理容美容師でもそうだ、邂逅とも呼べる運命的な出逢いだと感じた時には、「そこから先」が大切だと思う。出会いが芽吹きだとすれば、その後の寒さに耐えながら開花を待つ時間を大切にできるかどうか?このような意味で今回のリーディング劇公演は、短歌にとって僕にとって運命的な出逢いであったと言える。通常であれば公演後の飲み方(会)で脚本・演出・キャストやスタッフのみなさんと語り合って、さらなる開花への話をするところだが、コロナ禍はそれを許さない。だが僕たちがどうしようもないかといえば、そうではなくSNSという「おしゃべり」に反応することができる。本日の小欄は、そんな交差点となる時空の言葉である。冒頭に記したのは、先日の公演の照明等を担当していただいたスタッフのお一人の呟きであるが、大変に気になって覚書として小欄に引用をさせていただいた。彼とは以前にある高等学校の特別講義でご一緒したことがあり、その際の即興芝居や教室での抒情感溢れしかも大仰でない演技が個人的に大変印象深かった役者さんであった。今回は脚本も書き演出もするのだと知って、これからさらに交流の機会を持ちたいおひとりだと思うところである。

今回の公演で「牧水役」を演じた僕は、終末のタイトルコール以外はすべてが「牧水短歌の朗詠」であった。愛してやまず研究に執心する牧水短歌を、評論などではなくこのように表現できたことは、新たな視点の切り口をもたらせてくれた。だがその一方で、稽古の段階で欠席者がいるとその代役を務めた際の楽しさが忘れられないでいる。それは脚本上の構造でも明らかで、現代に時を超えて牧水が小枝子に再び逢わんがために再来する訳である。小枝子に対するト書きで示されたように、現代を生きる登場人物にはその姿は見えず「何かを感じている」だけなのである。ラストの朗詠は全員で声を出すという終末の演出であったが、「牧水短歌」が現代にも生きるという構図から役柄上僕は抜け出すことができないのだ。そんな抑制されたものを、登場人物の科白が十分に補ってくれたのは確かである。舞台袖で出番を待つ際に、何度かその科白に涙ぐんだのがその証拠である。そこで本日の副題「言葉を絞り出し、こぼれ出る過程」がそこにあることを実感した。考えてみれば「短歌」そのものも「場面」に接した作者が「言葉を絞り出し、こぼれ出る過程」があって、それを推敲に推敲を重ねて結晶化していく作業のようにも思う。その「入れ子構造」のような中で、今回僕は稽古から公演までを楽しめたのだと思う。脚本の随所には「いかに短歌を楽しむか」という方法が科白に仕込まれていたとも言えよう。まだまだ考えたいことは山積だが、本日はこのあたりで筆を置くことにする。

寺山修司が考え実践し表現していた多面的な芸術とは
短歌はどの場面をどのように具体的に切り取ればよいか
牧水の真に迫るために、他の研究者がなし得ないかけがえのない体験なのであった。


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