文字を表現にするあまりにも深く遠い作業
2022-02-18
台本を「読み」「解し」「表し」そして伝える「文字」であるものを「現実」にするあまりにも深く遠い距離
頭でっかちになっているこの国の子どもたちへ
人は空想し理想を思い描き、自らの物語を持って生きている。「こうしたい」「こうなるはず」と頭で思い描くことが、いざ現実になると「できる」とは限らない。むしろ通常はほとんど「できない」ことで、現実を知って擦り合わせ「できる」妥協点を知っていくと言った方がよいかもしれない。生きるためにはその「できる現実を知る」ことが大変に肝要であり、「頭だけで考えない」経験をすることが不可欠であろう。今月20日に公演を控えたリーディング劇の稽古が、大詰めを迎えている。「牧水と恋」と題した台本は、若山牧水の若き日の恋から生まれた短歌の数々が随所に織り込まれ、僕としては非常に興味深く演じ甲斐のある台本である。この数週間、稽古に参加してきて、いかにその台本の「文字」を「生きた表現」にするかの難しさを実感している。ほとんどが劇団員のメンバーの中で、自分の「できる」ことをどれだけ実現できるか?自己を曝け出す窮地にいつも立たされている気がしている。
既に20年近く、学校現場の「音読・朗読」を研究してきた。研究そのものが「文字」である論文にすることが難しく、自ずと自らが「朗読実践者」として「声の文化」に生きることを信条としてきたところがある。世間一般が思うほど、「国語」の教師や研究者が「表現」に長けているわけではない。学校種が上になればなるほど、頭でっかちで学習者の立ち位置を思うことなく勝手な表現を押し付ける傾向があることも痛感してきた。例えば、「声」のみで喋って聞く側がどれほどに理解できるか?この2年間で取り組んできた遠隔講義で「ラジオ講座方式」を実践し、それが生半可ではないことも実感した。演劇はさらに、身体表現としての「声」の総合力が試される。高校時代には器械体操部に所属し、それほど高いレベルではないが身体のみで演技を表現する経験も今にして役立っている。昨日は初めて公演会場での稽古、今までとはまったく違う現実に立たされた。これまでともに作ってきた仲間たち、決して頭でっかちにならない経験を研究者になっても体験することは非常に貴重だと思っている。
この国の教育には
「演じる」ことから学ぶ経験があまりにも少ない
まさに頭でっかちの短歌にしないためにも。
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