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海へあくがれて行く

2022-02-15
山間の渓谷で生まれた牧水
7歳で初めて見た海の感激
あらゆることを海に教わる人間

宮崎に移住して、この3月で丸9年が経過する。ちょうど9年前の今頃は住む家も決めて、WBC日本代表合宿があった年でもあり見物がてら、早々に生活準備を始めていた。当初は青島など海岸に近い場所に住もうかと、いくつかの賃貸住宅も実際に内見した。常に波の音に抱かれ、家の窓から水平線までが見える生活。まさにいま流行りの「ワーケーション」を意図した家探しだったかもしれない。しかしその一方で東日本大震災2年後でもあって、居住地は何より津波に対しての警戒を最優先に考えるべきと高台である大学近隣の賃貸住宅に決めることになった。この居住地の決定過程を振り返るに、人間の海への憧れと怖れが同居する心理を垣間見ることができる。自らの命の根源、だがちっぽけな人間の命などすぐに呑み込む脅威、人間は様々な文化を紡ぐにおいて海との距離感を意識してきたとも言えるかもしれない。

近現代歌人でこれほど海を短歌に詠んだ人はいない、と若山牧水は評されている。むしろ短歌に海という素材を導入した先駆者、と言えるかもしれない。日向市東郷町坪谷の生家は極めて奥まった山間部の渓谷で、海までは遥かな距離がある。だが幼少期から牧水は、生家の前を流れる坪谷川の水が海に続くことを本能的に悟っていたのかもしれない。その短歌の自然と同期する傾向は、行く水が常に音を立てて流れ海に向かって「あくがれて行く」ことが染み付いていたゆえの所業だろう。哀しさも寂しさもみんな海に向かって短歌として投げ掛ける、そしてまた第一歌集の名を『海の聲』としたようにその聲を聞こうとする。人間社会で遭遇した哀しさ寂しさは、自然宇宙の中では大変にちっぽけなものに過ぎない。されどまたその畏敬すべき海の前で人間はあくまで孤独だ。「海の聲」を聞くと誰かが囁いているような気がしてくる、それは既にこの世にいない人の声かもしれず、果てまた未来に出逢う人の声かもしれない。海を見ることそのものが「待つこと」の心性に通ずる。

焦らず驕らず今日を生きよ!
海は僕たちにそう呼びかける
この命の鼓動はあの波の動きに発したものなのだろう。


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