純朴と耽溺ー牧水の徹底と二面性
2022-02-08
「山と海」「文学と故郷」「文学と恋」「家族と旅」そして「自然と人間」
誰しもが持つ人としての二面性を見つめて
若山牧水の没年は1928年(昭和3年没)であるから2023年で没後95年、2028年で100年となる。没後80年を迎えた2008年(平成20年)が明けた(2009年)今この時期に、日本近代文学館(東京都目黒区駒場)にて節目を回顧する「東京展」が開催されている。そのパンフレットを見ると、展示方針として冒頭に記した「牧水の二面性」が示されている。旅と酒を愛した歌人、さらには恋に狂い家族を顧みずなどの悪評が語られることもあり、決して牧水の評判は芳しいものばかりではなかった。しかし、牧水研究第一人者である伊藤一彦先生の執筆や講演活動などによって、次第に牧水の近現代歌人としての価値の高さが明らかにされて来た。前述した「東京展」もその大きな「主張」であっただろう。恋も酒も旅も、純朴ゆえに耽溺し質朴ゆえに徹底するという訳である。旧制延岡中学校時代の男子のみの学校生活から早稲田大学に進学し東京に放たれた牧水、これも伊藤一彦先生が語ることだが、「大人になってからの麻疹は症状が重い」ということだろう。小枝子という女性に耽溺し叶わぬ恋に身悶える、その苦悩から救われようと酒にも耽溺する。喜志子という素晴らしい伴侶を持った後も生涯に渡り自分探しの旅に耽溺した。それぞれの徹底ぶりはというのは、まさに人間の二面性を考える上で興味深い。
人間にとって恋ひとつを取ってみても、心が支えられ飛翔する原動力にもなれば、理性を失う行動に陥る吸引力を併せ持つ。実は僕自身も中学校・高等学校は一貫男子校で、大学は文学部に進学したことから比率的に女性が多い環境に放たれた。部活動で運動に明け暮れていた中高時代からして、色気もなく朴訥で堅物な大学1年生であったと記憶する。牧水ほどではないだろうが、やはり「大人の麻疹」のように恋に耽溺し不器用で今思えば落第点な恋をしていた。だがその耽溺こそが自らに社会性への眼を見開かせてくれ、人間として揉まれて成長する契機にもなった。高校時代には「頭が固い」と言われていたものを、大学時代は十分な柔軟体操を行なったと評価してよいだろう。だが、どこかで「学問をしたい」という気持ちによって、「孤独を愛する」ような面から脱することはなかった。こう考えると中・高・大学時代に然るべき恋の経験をしておくことは、人にとって誠に大切なことだとあらためて思う。だが何かを極めようとすれば孤高の旅に出る、牧水の境地に学ぶことは少なくない。こうした僕自身の純朴と耽溺の果てに、宮崎で牧水に出会い直して今がある。世情は尽く二面性でしかものを捉えず、思考停止を招く考え方が溢れている。一見、二面性を認めているようで内実はどちらかに偏れと迫る。今や二面性は「多様性」と言い換えられるようになった。だがこの語も形骸化した一人歩きが否めない。真の「多様性」とは何か?牧水の生き方に向き合い純朴に耽溺することで、この国の近現代の垢を剥ぎ取るヒントがあるような気がしている。
「歌を詠むのは『自分』を知りたいからである。」
(牧水「歌を詠む態度」より)
さらに新たな時代の牧水の読み方に向けて徹底して向き合おうと思う。
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