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自然に素であるということ

2022-02-04
「ゆく水のとまらぬこころ持つといへどをりをり濁る貧しさゆゑに」
(若山牧水『くろ土』より)
「素」とは何か?水になりたかった牧水に学ぶ

昨日の小欄に僕の中学生の頃のほのかな恋心を記したことで、自ら「素である自分」とは何なのか?と考えたりした。まさにこの時期、首都圏では私立中学校受験の最盛期であるが「12歳の挑戦」をしていた頃の自分自身を顧みる。5年生の終わり頃から約1年ほど進学塾の日曜テストを受け、平日も3回は山手線で2駅先の同塾まで自転車で通っていた。現首相の出身校であると云う「男子御三家」と呼ばれる超トップ進学校が地理的に近いことから、当校の受験対策に力点が置かれる塾であった。瞬間最大風速のように日曜テストの成績が上がった際には、その難関校を受験するか?などと両親と相談したこともある。実際に冬期講習などでは、当校の「対策講座」を朝から晩まで受講した記憶がある。だが僕の「あこがれ」は当該校ではなかった。その塾で同じクラスにいたある女の子が友人を介して間接的に「誕生日はいつか?」と聞いてきたことがある。あまりにも唐突だったせいと入試の直前であったこともあり、きちんと答えられず拒否的な態度を取ってしまった。しかし、その間接的に問いかけてくれた女の子は、かなり以前から僕が思いを寄せる人でもあった。「入試があるから」という変に几帳面で無愛想な自分に、大人になってからむしろ後悔をくり返す結果となり本日の小欄に至る。純であり過ぎるゆえに、素(直)になれないという僕の経験である。

もうすぐ丸9年、宮崎に僕が住んでこの地を愛好するのは、どこかで「素=自然」を求めてやまないからだと思う。「大人」になって大学生の頃から、社会の流れの中で「濁る」ことも生きる上で必要なのではとも思うようになった。どれだけ「純粋」に思い焦がれても、どうしても振り向いてくれない憧れの人の存在。さらにその人も振り向いてもらえない憧れの存在があって、「一方通行」の矢印が三人を跨いで永遠に二つ掲げられている図式であった。そんな経験が大きく影響しつつ、僕は僕なりに社会に順応すべく「濁る」ことを多く経験したと思う。「純粋」を目にすると「社会性がない」と思えてしまい、学問の道のみではと教育現場に飛び出した。その後も数え切れないほどの「濁り」を経験し、宮崎への道が運命的に用意されていた。そこで牧水を読み直し惚れ直したことによって、僕は再び「素=純粋」とは何か?と考えている。「牧水」という名にある「水」、それは「とまらぬ」ことで清らかさを保つ。「水」が止まり淀むならば必然的に「濁る」ことになる。若き頃の「恋愛」にも、人との交流の具としての「酒」も、そして自らを淀まない存在であり続けるための「旅」も、牧水にとって「ゆく水のとまらぬこころ」なのであった。それでも比較的晩年の歌集である『くろ土』はその歌集名にも象徴的なように、自然との親和性の上で「濁る貧しさ」という自らの「こころ」を見つめている。周知のように、「素」は「白」に通ずる字義がある。

「繭から紡ぎ出したばかりの糸」=「素」
「はじめ・つね・まこと・むなしい・もとづく」
人は素に始まり濁れども素に帰る「染まずただよふ」の境地である。


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