連歌連句と枕草子で学んだこと
2022-01-28
連歌連句を小中高の授業で本文を疑い批評的に資料を読む目を
教科専門科目から教科教育科目への橋渡し
全国的に感染拡大に、歯止めがかからない状況となった。他国の状況を見てある程度は予想できていたとはいえ、僕たちはあまりに希望的観測で楽観的に考え過ぎていたのだろうか。大学講義は最終週を迎えたのだが、やむを得ず全面オンラインということになった。2年生の教科専門科目が後期の担当科目の中心であるが、この学生たちは入学直後からコロナ禍によって不自由な学生生活が強いられた。しかしオンライン授業にもすっかり慣れ、本学では対面講義ができた時期もそれなりに長かったので学生間の結び付きが薄いなどと云う問題はあまり感じられない。2年間で「国文学講義」2科目「国文学史」2科目「国文学演習」1科目をほとんどの学生らが、さらには「基礎教育科目」1科目を履修する者も多かった。それに加えて「入門セミナー」2科目がオムニバス担当であった。ほぼ入学してからの2年間に担当科目が集中しているので、2年生最後の講義となると感慨深いものがあった。多くの学生たちが将来教師を目指しており、彼らにどのような「国文学」を伝授しておくべきかは、今後「文学」を教育現場でどう扱うか?を大きく左右するという使命感を持っての担当である。
この日は「文学史」「演習」ともに15回の総括をすべく、学生らにオンライン上で全員に発言をしてもらった。中近世文学史をやってきた中で学生たちが一番印象深く感じたものとしては、「連歌連句会」を挙げるものが多かった。この2年間ぐらいの間で、僕が中古文学会のオンラインシンポジウムに登壇し論文化した「創作課題制作型学習」を大学生を対象に実践している訳である。国語教育に関する理論は、あくまで実践しなければ意味がないと思っている。そしてこの学生たちがいずれ教師になった際に現場で実践して欲しいことは、学生のうちにそのまま体験させておくべきと考えている。「座の文学」といわれる「連歌連句」によって、人と言葉で繋がる楽しさを多くの学生らが味わったことは大きな効果があった。また「演習」における『枕草子』についての発言では、「古典」を対象とする中高の授業で気づかなかったが新たな発見が多かったという声が聞かれた。古典本文の文献的な問題から資料とする注釈書の使い方、「作者・清少納言ありき」ではなく、この作品によって「らしき人物が想定されていること」など、「国文学研究」の上では基礎基本となることが、正直言って高校までの古典では身についていない。国語を専攻した学生であっても「古典嫌い」である者も少なくない。本文批判もテクスト論も実証的に文学を考える有効な方法であるが、そこに正対した国語教育を為すべきと研究者として気付かされる。大学入試対策という大義と勘違いされた古典観で、高校授業による「古典嫌い増産」に歯止めをかけねばなるまい。
大学生活も折り返しにあたり
自分で実習生として授業ができる基礎体力が備わった
「学」は修了しいよいよ「習(自らの羽で飛び立つ)」へ向かう学生たちである。
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