「×(バツ)」を付けず自ら気づくように
2022-01-12
学校で否定される嫌な感覚修正すべき誤ちは自ら気づくように
「漢字・作文・音読」で自己肯定感を高めるには
例年、学部1年生のほぼ全員が履修するその名も「国語」という教科専門科目において、「『国語』の嫌いだったところ」を記述してもらっている。そのトップ3が「漢字・作文(特に感想文)・音読」である。もちろんこうした活動が好きだった、という学生がいないわけではない。だがこの学習過程の共通点を考えてみると、「×」を付けられたり添削されたり大勢の前で訂正されたり「先生に否定される」ことが「嫌い」の大きな原因であると思われる。当然ながら誤った漢字を書いていたら「修正」されて正しい漢字を書くように指導すべきである。問題はその方法・過程ではないだろうか?例えば「感想文」などの場合、先生が添削を施すというのはよくあることだ。だがその添削された感想文が応募され受賞した経験のある学生は、「自分の文章ではないのに讃えられた」ことが心の傷のようになったと記述していたのが僕の頭から離れない。となればやはり一方的な上からの「修正」というのは学習者の主体性を奪い、「否定」へのアレルギーとなってしまうことを指導者は心得るべきだ。
この日の1限「国語専攻」の「専門教育入門セミナー」では、新春歌会を実施した。冬季休暇中の家族や恋人との経験を素材に1首を詠むのが課題。多くが短歌創作は初心者のようだが、実に読み応えある歌が詠草に並んだ。3回にわたって牧水や俵万智をはじめ、「牧水短歌甲子園」の秀歌を読んできた経験を上手く三十一文字に込めてきたようだ。まずは自らの心に花開いた「思い」を三十一文字の形式に流し込んでみることが重要で、「×の歌」など一首もあり得ないのである。歌会の批評も初心者とは思えないコメントが多く、さすが「国語専攻」の学生たちだと感心した。最終5限目はゼミであったが、冬季休業中の学生らの移動と急な感染拡大を考慮してzoomで実施。そこでは「推敲」と「自己相対化」を話題として議論を展開した。やはり小中高では、文章を書いたり創作をすることを「否定」されることによって嫌悪感が増した、という意見は多く見られた。だが果たして「推敲」とは「否定」が伴うものなのだろうか?もとより「修正」という言葉がいけない、「自らの表現を人に伝わりやすくより良いものにする」活動だと学校現場で学べば、自己肯定感を持ちつつ「推敲」と「自己相対化」へ向き合うことができる。部活動などでも徒らにフォームなどを強制的に修正される指導が目立つ。箱根駅伝で今年優勝した青山学院大学の選手らがなぜ笑顔で走り切り襷リレー後も倒れ込まないのか?個々の主体性を尊重する指導とは何か?など新年なりに議論が熱くなった。
「ダメ」とされる表現は一つもない
「わたし」と「あなた」を大切にする教育を
「短歌はわたしの命の砕片」と言った牧水を見習おう。
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