「物語に基づく医療」に学ぶ人文学
2022-01-06
「ナラティブ・ベースド・メディシン」「ナラティブ=朗読による物語文学・語り」
細分化された研究をつなぐ「物語」を
友人のフリーライターがTwitterに投稿していた「ナラティブ・ベースド・メディシン(Narrative Based Medicine)」という用語が大変に気になった。彼は医療系の出版社に勤務した経験がありその方面の知識が豊富で、医療では重要視されて久しい方法だと云う。『デジタル大辞泉』をくると「患者が語る病の体験を、医師が真摯に聞き、理解を深め、また対話を通して問題解決に向けた新しい物語を創り出すこと。医療の質の向上、治療の促進が期待される。(エビデンスベースドメディシン)を補完するものとして提唱されている。」とある。補足するならば「エビデンス」は最近よく使われる外来語だが「科学的根拠」という意味、「科学的に検証された最新の研究成果に基づく医療の実践」のことである。友人は『泣ける日本史』(文響社)という自著について語って曰く、「日本史も細分化された研究をつなぐ『物語』が、カオスを迎えた今、特に必要とされている。」とTwitterでの弁舌は熱い。
考えてみれば僕が若い頃は受診した際の医師の対応に不満を抱くことが少なくなかったが、最近は実に良好なコミニュケーションを取ってくれる医師が多くなった印象だ。もっとも僕自身がそうした可能性のある医師を、選んでいるからかもしれないのだが。少なくとも僕が宮崎で蜂に刺されて救急に駆け込んだ際(医師を選べない)も、看護師さんも医師も「僕が蜂に刺された物語」を十分に聞いてくれた。その「対話」によって、刺されてからの時間や蜂の種類などの危険性を把握してくれたように思う。医療でこうした方法が重要視されているのに、「物語」を研究する本家本元の人文学ではむしろようやくそれに「気づいた」程度の段階まで来たようで情けなさを禁じ得ない。文学も史学も研究が細分化され精緻化されたことによって、それをつなぐ「物語」が語られなくなった。ダイナミックな研究が消えた反動は中高の学びにも影響を与え、「精読主義」に偏り文法や語彙にのみこだわり「物語を読まない」国語授業を増産してしまった。小学校の前半までは「物語」が好きだった子どもたちは、後半ぐらいから「読む技術」という名の「物語の解体」に曝されて興味を失ってしまう。「物語」はもちろん「短歌」の中にも読める。短歌一首からどんな物語を想像できるか?そこに対話が生じ短歌そのものの奥行きが問われていく。「創作課題制作型学習」の意義を、医療の面から証明してくれたような話題であった。
人に物語あり
「医療」も「文学」も「人がいかに生きるか」を支える
魯迅が医療から文学に転じた理由がわかる気がする。
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