推敲からが作ることー三十一文字の清らかな川
2021-12-28
スラスラと出てくるわけでなく素材を骨組みして言葉にすること
推敲してこそ自分がわかってくる
昨日も自らの文章が載せられたある学術雑誌が自宅に届いた。早速に開封して自分の文章を読み返してみる。既に手遅れとは思いつつ、どこかで間違いはないだろうか?という思いが脳裏では起動している。編集後記など他者の文章内容に間違いを見出すこともあり、「気づいてしまった!」という思いにさせられる。ある意味で「文」は「生きている」のであり、書き手であってもあらためて接すれば変えたくなったりするものだ。著名な作家の小説でも、推敲がくり返されてようやく「名作」の境地に至った訳である。高校のすべての教科書に載っている芥川龍之介『羅生門』の末尾などは、芥川が最後まで悩んで推敲に推敲を重ねたというのは有名な話だ。作家とて、スラスラと小説が書けている訳ではないのだ。授業研究などで小学校を訪れ、文章を書く活動を参観していると「最初からキチッとしたものを書こう」と思っている几帳面な児童ほど文章を綴るのが苦手のように思うことが多い。中高教員の時の経験でも、日常では大雑把でいい加減に思っている生徒があっさり文章を書き上げることも少なくなかった。真に良いものを書こうとしたら、「書き上げたところから」の推敲をくり返すことでようやく文章ができてくるものだ。
嬉しいことに、母が短歌を作ろうとしている。常々「なかなか出てこない」と口にするが、誰しも著名な歌人とて「出てくる」ものではない。日常生活で「心が揺れた」ことを、忘れぬようにまず「言葉にしてみる」というのが第一であろう。「心の揺れ」とは、喜ばしいこと、怒りたいこと、哀しいこと、楽しいこと、なんでもよい。とりあえずは「七音」のみの好ましく思ったフレーズ「故郷の友と」などを書き留める。初句(五音)から順序立てて考えるのではなく、「五音」「七音」のことばを探すという感覚がよい。その素材を「三十一文字の形式(姿・さま)」に流し込むのだが、ここでも「とりあえず組み上げる」感じでよい。その後、上と下を反対にしたり、意味が重なるものはないか?(一つあればわかるものが無駄に二つある場合)書かなくとも「私」とわかるのが短歌であるゆえに、次第にことばを自己添削していく。先日の出版記念トークで伊藤一彦さんが言っていたが、推敲してこそ「自分がわかってくる」のだと云う。それはことばの骨組みになった「自分」を自らが見つめられるからだろう。「こんな自分ではない」とか「意外に安泰なのでは」など、「三十一文字の自分」が見つめられるという訳である。
心の中に濁りを溜め込んでいてはいけない
流れない水は腐ってしまうのである
清らかな水であるためには言葉を「三十一文字」の川に流すのである。
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