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「古池や」の深淵まで行ってみる

2021-12-17
雅の伝統と俗の希求
平安朝由来の価値観を超えるために
「なぜ?評価されたのか」と深淵まで考えてみること

中近世文学史を扱う講義も江戸時代の「蕉風俳諧(松尾芭蕉発句)」まで来た。どれほど「知識」のみの「文学史」から脱け出せるかを講義課題として取り組んでいる。「知識」はむしろ講義外の学修時間に、自らテキストから学ぶように指導する。学校種を問わず教師になった際に「知識」はいくらでも調べることができる。だが「考え方」が凝り固まっていると、なかなか良い授業を目指すことができない。Web全盛の時代に「知識」は溢れているが、その真偽を見極める考え方こそが大学で学ぶべき内容だろう。「古池や蛙飛こむ水のおと」の句はあまりにも有名で、多くの人が知っているはずだ。だがこの句の何が良くてどのような評価を得てきたか?ということはあまり語られない。「なぜ?『古池』なのか」「なぜ?『水のおと』を描くのか」といった素朴な疑問への考え方こそ、教育学部の講義で身につけるべきことだろう。

この句は当初『山吹や』として晩春の季節観を濃厚に表現しようとした。いわば平安朝からの「雅」が長年築いてきた「勅撰集的季節観」とも言えるだろう。ある意味で、江戸時代の王朝を含めた懐古主義的な発想は目を見張るものがある。だが伝統的な権威に依存することから抜け出すことこそが江戸時代の「おかしみ」ということであろう。どこにでもあって誰もが知っているが風趣のある境地、「雅」を逆説的に意識させながら「田舎爺」のような「俗」を併せ持つ。その絶妙な選択の中から生まれたのが『古池や』ということになるだろうか。「蛙(かはづ)」についても『古今集仮名序』以来、その「鳴き声」が詠まれることが基本路線であった。だがこの句は一切「蛙」を鳴かせることはなく、そのものが「飛こむ水のおと」を取り合わせた。『古池』の静寂さはこの「おと」一点によってこの上なく際立つことになる。「俗」ながらの風趣。時代劇『水戸黄門』で光圀が自らの素性を明かさず、同行する「八兵衛」などが言ってしまいたいのを抑え「俗」であり続けることで事件が解決するような洒落の効いた発想。近現代短歌にある「ユーモア」の歌なども、江戸時代からの影響も少なくないと考えたくなる。

芭蕉の他の句とも読み比べつつ
何が新しくて何が面白いのか?
ふかいことをおもしろく!詩歌に欠かせない考え方である。


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