「できた」で満足しないこと
2021-12-03
『風姿花伝』能楽論としての教育論読み解きながら教員としての生き方を考える
教育学部でこそ生きる文学史講義として
中世の文学を語るに「連歌」と「能」は欠かせないことから、この日は世阿弥の能楽論『風姿花伝』(『花伝書』)を教材として講義を展開した。能楽のような古典芸能は口伝による伝承が重要であるが、発達段階の各年齢ごとにその要諦がまとめられている部分がある。「七歳」「十二・三歳」「十七・八歳」「二十四・五歳」を学生ら四班に分担して、その要点をまとめる資料読解の活動から講義を開始した。おわかりのように示された年齢の区切りは、現代で言えば「小学校入学」「中学校入学」「高校卒業」「社会人として独り立ち」というような節目の年齢である。生活様式などが大きく変化した時代を超えて、この区切りの年齢が同一であることは興味深い。「自由にやらせる」「基礎基本を大切にする」「声変わりにも配慮する」「自己満足しない」などの要点が挙げられた上で、現代の教育に通ずる点を質問・確認する学生らの対話が展開した。
「十七・八歳」までは学生らが既に経験してきた年齢であるが、未知なのは「二十四・五歳」で、教員になるとしたら初任から三年ということになる。おのずから僕自身の経験を話すことになったが、教員として「授業ができる」「生徒指導ができる」「実務ができる」という「できる」と思った時からの心構えが何よりも重要である。『花伝書』でいうならば、一通りの「能楽の型」はできるのだがそれで自己満足しては芸術としての舞に昇華していくことはないといった趣旨のことが記されている。確かに教員になって三年もすれば、それなりの「授業はできる」ようにはなる。だが果たして学習者にとってその授業が効果的で興味深く意義深いものであるかは、永遠に教員が問い続けなければならないことだ。僕は初任校において、プロ野球やJリーグに進む生徒らと多く出会った。彼らのその後を応援し続けていると、「プロ」の過酷さも多く実感した。甲子園や国立競技場など高校スポーツの頂点で活躍したとしても、「自己満足」や「驕り」の気持ちを持ったら決して「プロ」では名を馳せることはない。僕自身も「日本文学」や「国語教育」の「プロ」になるべきだと奮い立ち、教員になって10年後に大学院修士に入学した。晩成ながら20代には教員としての貴重な経験もして、今や教員養成に向き合う大学教員になることができた。何事も古典芸能の口伝のような姿勢で挑めば、「花」となる時間に出逢えるということかもしれない。
教員はなった時からさらに学び続けること
人生あらゆる道で傲ることなく生きる
大学教員もなってからが大切ののである。
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