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先生と呼ばれるほどの

2021-11-27
どんな社会的立場になっても
日常で「先生」と呼ばれるほどの
いつも変わらぬ友だちとして

どうやら世間には「先生」と呼ばれたい人が多いのだろう。教師・医師・弁護士・経理士・会計士・「・・道」の師匠・理容師・美容師そして議員さんなど、職業的に幅広い分野で「先生」は使用される。元来「師」というのは「法師」など「宗教的な指導者」を指す用法が多かったようだが、総じて「指導者」全体を指すように派生したのであろう。落語家などは今でも「師匠」は使用するが、決して「先生」を使用しないのが粋である。落語という目に見える技芸に長けた人という意味で「師匠」の「たくみ(匠)」という意味は相応しい。何より「ししょう」という音が粋な感じがする。僕などは学部新卒で学校の「教師」になったので、いきなり「若造」が「先生」と呼ばれるようになり、特に日常の街中でそんな風に呼ばれるのに大変違和感があった。

親友が社会的な立場が大きく変わった。その変革を祝して会う機会を持ったのだが、あくまで「友は友」でありたいと願う。巷間の夜の街では特に、僕自身も「先生」とは呼ばれたくない。歌人でも「師匠」と思いを寄せる人は「先生」と呼びたくなるものだが、大変に若い歌人が平然と「・・さん」と呼んでいるのを見ると、それもいいなあと思うことがしばしばだ。短歌を創り読み批評するという地平においては、あくまで「平等」であるという証のようで公平性が担保されているような感覚である。反対に無闇に「先生」とばかり呼びたがる人々が、世間には少なくない。どこか建前を優先しており、人と人との本質的な関係で向き合っていないような印象を受ける。ゆえにその呼び方ひとつで、その人がどう生きているかという姿勢がわかるものである。

我が良き友よ
建前でなく生きるための仲間として
「先生と呼ばれるほどの・・・・・」とはよく言ったものだ。


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