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型を学び協働してこそ気づくこと

2021-11-25
「型」を真似ぶことから
臨書やシャドーイングなどの反復
そして協働して自らの傾向に気づくこと

大学学部時代に免許状取得のため「教職課程」の講義を受けていた。僕は文学部であったので教育学部まで出向き、全学部から教職希望者が参集する大教室での講義であった。力んで1年生から受講したが、後からサークルの先輩らから評判を聞くと甚だ評価が厳しい先生だと知った。伝説的なエピソードさえあり、講義の最初に出席カードを提出した学生が大教室から抜け出すのを見つけた先生が、「なぜ出ていくんだ!」と大声をあげてその学生を追い掛け、とうとう高田馬場駅まで走って追いかけたと云う尾鰭背鰭のついた噂さえあった。だが僕自身はその先生の教育への情熱が大好きであり、いつも最前列で講義を受け今でも筆記した講義ノートを大切に保管している。先輩の噂では成績の「優」は難しいと言われたが、その難関を克服して「優」で単位を取得した。なぜこの先生を本日の話題で思い出したかというと、「教育とは、指導者の学びを追体験させることだ」と力説していたことが今でも肝要だと思うからである。となると「指導者の思考」そのものが誠に大事だと言い換えることもできる。

昨日は、附属学校園の共同研究の日であった。中学校の公開研究会や小学校の授業研究など、諸行事の報告がなされその振り返りの対話の時間が持たれた。共通した視点として、「思考の型」を提供した上で「批評」的な力を引き出すということが話題になった。僕自身も短歌を例に「型があっての型破り」という比喩的な物言いを、話題として提供してきた。短歌のよみの上達には、先人の短歌をどれほど多く辿るかが大切だということである。また書道であれば、やはり「臨書」から学ぶことは計り知れない。「形」のみならず先人の「筆運び」を学ぶことで、まさに文化は伝承されていくのだと思う。さらに肝心なのは「型」によって「真似ぶ=学ぶ」のちに、必ず「協働」する場を設けることだ。「真似ぶ」という内にも当事者の「解釈」が必ず加味される。その傾向を知ることで、自らの「真似び」の深さを知る必要があるということだ。自己を客観視できるかどうかが「大人と子どもとの差」であるとも、前半に綴った大学の先生に学んだ記憶がある。せめて教職の現場に出る前の学生には、客観視ができるまで徹底的に指導すべきとあらためて思う。そして僕ら大学教員にとっては、附属学校園との協働の場こそが自らの価値を見定める大切な客観視の場であるのだ。

叱り追いかけるという教育への情熱
「叱正」を忘れてしまった社会で起きる様々な出来事
協働して自らを開放し自らを知り自らを磨く必要がある。


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