「さよなら」か「さようなら」か?ー歌詞を唄う聲
2021-11-17
歌唱から聞き取った「音(聲)」としてCD添付の歌詞カードを基礎資料としつつ
表記や助詞の有無などについて考える機会
新刊著書の出版社から夜になって電話があった。既にメールを数本送っているので、早急に確認をお願いしたい事項があるという趣旨であった。校了して提出したゲラのうちに「さよなら」と「さようなら」が混在しているので、確認してほしいというのが一番重要な内容だった。出版社に直接に提出した際に、章名に「さようなら」を加えたことによる齟齬である。僕の頭の中では当該部分の歌詞をミュージシャンが唄っている上では、明らかに「さようなら」と聞こえてそう記憶していた。だが本文中の歌詞引用部分は「さよなら」になっているという指摘だ。早速にCDの歌詞カードを見ると、最初に当該の曲だ出された際とその後のベスト盤が出された際には、ともに「さよなら」でありながらその後に助詞「は」があるとないのと齟齬があり、興味深い発見もできた。自ら作詞作曲するミュージシャンは、唄っているうちにメロディと歌詞にリズム的な空白があることに気づくと、「は」などの助詞などで補うのかもしれないという「唄う聲」の発見であったからである。
もとより「さようなら」は「左様ならば」であり、「『さよう』という語は中古からあるが『さらば』(和文)『しからば』(漢文訓読文)で表わされ、中世末期には『さらば』『それなら』が多く用いられ、『さようならば』の使用頻度が高くなるのは近世中期以降である」と『日本国語大辞典第二版』「語誌」欄にある。さらに「別れの挨拶の用法」においては、「先ず『ごきげんよう』『のちほど』などの他の別れの表現と結びついた形で用いられ、次いで近世後期に独立し別れのことばとして一般化した」とある。「打ちとけた間柄での『おさらばよ』やぞんざいな言い方の『そ(す)んなら』に比べて、『さようなら』は丁寧な言い方」ともある。「発音」として「サヨーナラ」と長音になることからからも、歴史的仮名遣いでは「さやうなら」であり現在でも発音する際に「さよなら」とあっても「よ」の音がやや長めに延びることから「さようなら」と聞こえることも少なくない。もちろん『日国』にも「『さようなら』の変化した語』として「さよなら」の見出し項目も設けられており、漱石『吾輩は猫である』では「さよなら」の用例がある。もちろん今回の判断に影響があったわけではないが、僕の小学校高学年の担任の先生は教室で下校の際に「さよ”おなら”」と言っていたのが思い返される。ちなみに、音楽の先生であったことも一興だ。
歌唱のことばは生きている
メロディと歌詞との関係で生じる微妙な日本語の音韻
やはりことばは生きているのだ。
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