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「世に語り伝ふる事」ー『徒然草』の時代から

2021-11-05
「世に語り伝ふる事、
 まことはあいなきにや、
 多くは皆虚言なり。」(『徒然草』第73段より)

高校教科書によく採録されている古典教材『徒然草』、僕が新卒教員として初めて教壇に立った時も「高3古典」の担当となり、最初に授業をした教材であったのをよく覚えている。文学部出身の一教員として教科書教材だけでは十分に『徒然』の面白さが伝わらないだろうなどと力んで、自ら多くの章段をプリントにして授業教材として補充して使用した。面白い話題を選びつつ、やはり教訓となるような章段をと考えていたのだろう。冒頭に挙げた第73段(原文)もその一つで、「世間に語り伝えられている事は、真実だと面白くないからだろうか、たいていの事はみな嘘偽りである。」(拙訳)と書き出された内容だ。さらに「実在のこと以上に、人は物事を大げさに言う上に、まして年月が経ち、場所も隔たってしまえば、言いたいように作り話しをして、筆で書き留めてしまえば、そのまま定説となってしまう。」(拙訳)といった内容が続いている。誠に現在の社会にも当て嵌まる至言といえるだろう。

情報の流通という意味では、現代とは比べものにならないほど「口コミ」に頼る中世鎌倉時代。むしろ「口コミ」だけに「伝言ゲーム」のように「虚言」になっていくのも必然なのだろう。「音に聞くと見る時とは、何事もかはるものなり。(噂に聞くのと見る時では、何事でも違うものである。)」と「百聞は一見に如かず」という世の真理も述べている。噂話をすぐに信じるのではなく、自らの眼で確かめよと言っているかのようだ。明治以降153年、情報通信においては「郵便」「電話」「テレビ」「携帯」「スマホ」と、急速かつ格段の進歩を遂げて今に至る。特にこの15年ほどで、多くの人々が手中に情報が氾濫するスマホを持つことになった。自らが選ばずとも「ニュース」らしきものが流れ、その信憑性もあまり確かめず玉石混淆の情報を浴びているわけだ。前米国大統領のように自ら「フェイク」を批判しつつ、妄言を連発する人物まで現れた。これは決して米国の他人事ではなく、僕らの国でも情報の信憑性は誠に危ういと考えた方がよさそうだ。あらためて今、『徒然草』の学びを反芻する時なのかもしれない。

「真実」はどこにあるのだろう?
「多くは皆虚言(そらごと)なり」と心得ておきたい。
もちろん小欄の情報も、真に受けてはならないと言っておこう。


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