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「歩く」とは「少し止まる」ことでもある

2021-11-01
知人の投稿にハッとさせられ
ある局面だけで物事を判断してはならず
歩き続ければ前のめりに何事も見えなくなるのかもしれない

知人が標題のような投稿をしていて、ハッと気づかされた。彼は「まち歩き」のプロで身近なものに文化を発見する才能に長けた人物だ。その「まち歩き」においても半分は「止まって語り合う」そうでないと「まちは見えてきまへん。」と高らかに語る。この核心を突く言葉こそが、文化を観ることのできる眼である。確かに漢字「歩」の構成成分を分解すると「止」と「少」、やや哲学的な物言いをするならば、「少し止まる」状態がなければ「歩く」ことそのものが「無い」ということにもなる。この世のあらゆるものは「相対的」なものであり、「絶対」は無いのが世の摂理というものであろう。歩きながら即発的に生じるものもあれば、止まって沈着させることでようやく見えるものがある。この双方のバランスがなければこの世の中は廻らないはずである。

深夜に親友から電話まで入っていて、可能性の糸を「少し止まって待つこと」の重要さを思い知らされた。ここで急かして得られる結果が大切であるのではなく、時間軸の前後に連なる継続的な活動こそが重要なのだ。野球を観ていれば贔屓チームがどんなに苦戦を強いられても、9回が終わるまでは勝利を信じているのが真のファンである。米国のファンが”We believe”のプレートを掲げて応援する姿には、何度も感銘を受けている。同質の真摯な親友の温かい心には、今朝起きて深い感銘を受けた。やはり「待つこと」は人生の後退では決してなく、前向きに「立ち止まる」ことでもあるのだ。それにしても、総選挙の投票率が「55%」と報じられている。コロナ禍で関心が高まっているとの報道もあったがなんのその、ほぼ半数の人々は自らの生活を省みて「立ち止まる」ことから投票をしようという意志を持たない。選挙速報の最中に東京の京王線車内での通り魔的犯行が報道され、「生きづらい国」を目の当たりにさせられるのだ。投票をした人しない人そのものが「分断」なのであるが、この国がこのまま「前のめり」になるのではなく、「立ち止まる」理性を持てるかに自らの言動が微力ながらも貢献できたらと思う。

「少し止まる」滞空時間
どちらかではなくどのようにでも
否定したものに自らが否定されないためにも「立ち止まる」ことだ。


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