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再び記憶の刻まれ方を考える

2021-10-27
買い物をした際の記憶
商品選びから会計まで母の語ったこと
考えてみればよく再現できる記憶はすべて場面描写であった

宮崎に移住後すぐ、東京時代からの生活習慣でスポーツジムに入会した。しばらくは体力作りに週3回は市内まで車で通っていた。あるレッスンに参加した時のことだ。終了後にトレーナーさんが「今のレッスンは何人参加していましたっけ?」と僕に聞いてきた。筋トレ後にリラックスをさせるストレッチクラスだったからか、それほど参加者が多かったわけでもないことから、僕は「7人」とすぐに答えることができた。なぜ僕はその人数を記憶していたのだろう?人数を問われた際に思い出したのは、スタジオの鏡に映る部屋全体を描写した映像である。それを写真か動画のように思い出して、脳裏で人数を数えることができた。その時、「記憶とはこうして保存されていくものか!」と自らの脳内構造に驚いた、という物語を記憶している。もとより記憶は良い方だと人からは言われる。「どうして?そんなことまで覚えているのか」と言われることもしばしば。一般的に文学者は、幼少時からの記憶が鮮明にあるなどと云われるが、こうした意味では僕も資格があるのだろうなどと思い上がっている。

一番初めの記憶は、母の作成したアルバムの写真と照合すると1歳半であった。河原で遊んでいると前のめりに石の礫の多い地面に転んだ、その際の砂利の感触と幾分かの痛みの記憶がある。また父の仕事に同行し海の近くまで行き、波打ち際まで行ったら寄せては返す動きに目が眩みやはり前のめりに転んだ。近くの洋品屋で洋服一揃えを父に買ってもらって帰宅すると、母が「おかしな服を着て帰ってきた」と驚いていた記憶がある。このかなり幼少時の記憶は、すべて場面描写として脳裏に長期保存されている。もちろん前者の河原の記憶の場合、後にアルバムの写真を見て再構成された「場面」なのだと思い直すこともある。それにしても礫の手触り感とか、波の寄せ返しとか、洋品屋のやや照明の暗いショーウインドとか、具体的な場面が記憶としてあるのは確かだ。幼・小・中・高の記憶でも印象深いことは、「こんな授業で先生がこんなことを言った」のを理屈ではなく場面映像のように覚えている。今回は数年前に母と東京の家電量販店で買い物をした際の記憶を、紐付けに紐付けをくり返し鮮明に思い出した。商品の選択時に母が言ったこと、会計の際の母の行動、などを思い出していたら、さらに商品が搬入された時の記憶まで蘇ってきた。人と人との関係も同様だが、「紐付け」をして情報を保存しておくことが実に大切だと痛感した。

具体的な場面を描写するのが短歌
過去も変えられるとしたら記憶の描写から歌で再現をすることだ
パソコンやAIにも負けない生きた心の記憶保存。


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