小中学校ではせめて韻律感を身体に
2021-10-26
課題は「短歌創作」とするとなぜか「十七音」で提出する学生がいる
さらには一句多い「五七五七七七」とか一句足りないとか
学部1年生のほぼ全員が履修する「国語」という教科専門科目がある。教員免許取得のための単位の上では「小学校」免許に必要な科目である。(所属学部は小学校免許を主として、中等教育教員志望者でも小中一貫の理念のもと小学校も取得する場合が多い)まさに、小学校で一番時間数の多い「国語」の授業を教えるための基礎基本となる科目である。オムニバス(複数担当者)形式で4名の教員で担当するが、もちろん僕の守備範囲は「詩歌教材」ということになる。小学校で詩は間違いなく全学年で教科書教材となっており、中学年で文語を含めた短歌・俳句を扱い、高学年では必ず「短歌・俳句・詩」の創作を扱うのが一般的だ。免許状更新講習などで現職の先生方とお会いすると、なかなか「創作」の指導に自信が持てないという声を多く耳にする。自らが経験のないことを児童には教えることへの、不安と罪悪感のようなものが入り混じった感覚なのだろう。それだけに担当講義「国語」では、せめて「短歌創作」を体験しておく必要があるのではないかと考える所以である。
だがいざ学生たちに創作課題を出すと、冒頭に三行書きしたように「短歌」と言っても「俳句」を平然と提出してくる者が、履修者約120名のうちに数名以内だが毎年のようにいるのだ。また三十一文字を大幅に逸脱する者や句が足りない者もある。やまとうた1300年の歴史を考えれば、連歌とか旋頭歌・仏足石歌、近代では都々逸などの歴史もあって、「句切れ」というのがある意味での必然であると考えれば理解できないものではない。それにしても、学生自身は小・中・高の「国語」の教育経験の中で「短歌・俳句」を学んできたはずである。「一首」や「一句」の問題はもとより、世間では「短歌」と「俳句」の区別がついていない人々があまりにも多いのである。昨日も上皇后さまの眞子様誕生の際の和歌を紹介するTV番組で、平然と「詠まれた”一句”」と言っていた。ここで大切なのは、韻律感とも呼ぶべき身体感覚である。我々は当然だが、読めば「短歌」と「俳句」の区別は容易につく。複雑な「句割れ句跨り」などではない限り、「字余り字足らず」も身体感覚でわかる。6月の日本国語教育学会西日本集会で指摘されたことだが、毎日のように牧水短歌を朗詠する坪谷小学校の子どもたちの韻律感は抜群であったと俵万智さんも指摘していた。些末な技法名や意味を覚えるよりも、せめて小学校・中学校でこの韻律感ぐらいは学んでいて欲しいと願う。ゆえに将来教師を目指すうちの学部に来るすべての学生には、短歌創作を体験し韻律感を養うべく「音読」の機会も講義中に設けているのであるが・・・。
今週は最後の担当回
課題で創作された短歌などの批評
自らの感覚を含めて、いまいちど短歌の「韻律感(音楽)」を見直そう。
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