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通りすがりに挨拶のある

2021-10-12
街を歩けば出会う人々
高齢の方から小学生・幼児まで
例外なく挨拶を交わすこの街が好きだ

挨拶をどのようにするかは、その「社会の鏡」だと思うことは多い。例えば、東京で居住地域の街を散歩していて、見知らぬ人と挨拶を交わすことはほとんどなくなった。「なくなった」と書いたのは、僕が中高生ぐらいまでの東京下町では、少なくとも挨拶を交わす街の人々がいなかったわけではない。昭和が終焉し平成となった頃から、その人情味がたいそう怪しくなってしまった。大学は日本でも指折りのマンモス校であったせいか、ある意味で互いを牽制し合う風潮もあって誰彼構わず挨拶をする空気はなかった。教員になって運動部の強い勤務校は、校内ではほとんどの生徒たちが廊下ですれ違うと挨拶をした。当該校では教員仲間はもちろん明るく挨拶を交わしたが、二校目の勤務校では廊下で目を逸らす教員がいて驚いた記憶がある。現在の所属大学に赴任した際には、廊下で見知らぬ学生までもが挨拶をするので嬉しくなった。今も僕は学生にも教員にも大きな声で挨拶をする「宮崎スタイル」を励行している。

米国に行くと実感するのが、見知らぬ人と公共の場ですれ違うとかエレベータで接近した際の対応である。必ずこちらの視線を意識して、建前ながらニコッと微笑みを浮かべる。銃社会の問題など米国の課題は多いのだが、公共の場で見知らぬ人に「私はあなたの敵ではなく安全です」というサインを出す必要があるのだと聞いたことがある。ドアの双方からすれ違うときにも、ほとんど例外なく先に開けた側の人が、ドアを押さえ続けて反対側から通る人に配慮する。日本でも一部見られる光景であるが、その度合いがかなり徹底している。見知らぬ人の微笑みと口元から漏れる「ハイ!」の声は、社会を円滑にしているのだと思う。そんな社会性も思い出しつつ、いま宮崎で僕が居住する街を歩くと、例外なくすれ違う人々に挨拶をするようにしている。多くの人が応えてくれ、高校生が恥ずかしがってやや俯くぐらいの状況だ。8月の「吉田類トークショー」で「宮崎の魅力」を語った際に、横断歩道を渡る小学生の礼儀正しさに感激したことを述べた。自動車を停止させて待ってあげると、渡りきった後にこちらを振り返り声を出して「ありがとうございました」と礼を言う。幸福度上位、魅力度急上昇という宮崎県、こんな挨拶が健在なのが大きな要因ではないかと思うことが多い。

「袖すり合うも他生の縁」
歩く時間帯で馴染みになる人々も
豊かに生きられる街を選んで住むべきだろう。


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