多様ってなんだろうか?ー「それを横より見てゐる心」
2021-10-07
「人がみな同じ方角に向いて行く。
それを横より見てゐる心」(石川啄木の短歌より)
後期担当「国語」複数担当者科目でそれぞれの専門に関連した内容について、小学校で「国語」の授業をする際の基本的な教材の分析・解釈・批評・評価ができるようすることを目標とするものである。今年度は他の担当者の都合で後期開始直後から4回を僕が担当することになった。小学校教員免許状はどのコース・専攻でも卒業要件になっているゆえ、ほぼ学部1年生が全員履修する科目である。この限られた時間数の中で何を教えるかは実に悩ましいが、それだけに十分な精査も必要となる。毎年、必ず伝えたいことは「国語」では「多様性」を学ぶべきということ。ただし昨今はあらゆる場面で「多様」という言葉が使用されるのだが、それだけに真の意味で「多様ではない」ことを指して使用されることも少なくない。そう言っておかないと社会的に批判を受けるゆえ、言葉だけ「多様」と言って逃げているケースが多いということだ。果たして「多様」ってなんだろうか?
大学1年生は高校段階から「入試」をくぐり抜けて入学している。共通テストではマークシート式で(「記述式」が頓挫した)一つの「最適解」が求められる。「国語」に関する設問では「多様」な解釈は許容せず、「唯一無二」の「正解」を求める思考が自ずと身につく。教科によって、また「国語」においても設問分野によってはこれで仕方ない場合もあるが、特に「文学」に関わる問いに対しては「唯一無二の正解」はむしろあり得ない。それゆえに「文学」を入試で問うべきではないという風潮も加速して席巻している傾向も強い。中学校ぐらいから「文学」であっても「まとめ」があって「先生の解釈」を「試験」で書けば評価が高くなるので、仮に自分は違う考え方をしたとしても「先生の正解」を覚え、頽廃的で服従的な思考しか育たない「国語」の授業が横行する。やがて高校入試を経て大学入試に至る。こうした中高「国語」授業の誤った「方角」にみなが楽だからしがみつき、その結果で「文学は入試で扱えない」というのは、この国に育つ若者の思考力を衰退させることになるのではないか。話題は迂遠したが、ゆえに教師を目指す大学1年生には、自らの小中高の教育経験を相対化させ、「国語」は「多様な思考を育む」ことを具体的に語るのである。
他者との違いを自覚し自らの傾向を悟ること
1週目はオンライン講義ながら5人ずつのグループ対話を実施
谷川俊太郎・金子みすゞ・吉野弘らの詩を、あなたはどのような傾向で読むのだろうか?
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