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忌憚なくといふこと

2021-10-01
「忌憚=忌みはばかること。遠慮すること。多く打消の語を伴って用いられる。」
(『日本国語大辞典第二版』)
用例「忌憚ない意見をきかして下され」(多甚古村・1939・井伏鱒二・水喧嘩の件)

我々はどれほど自らの心の内を、露わにしているだろうか?夫婦・親子・恋人・親友など身近な人々に「心のまま」に言葉にして伝えているだろうか?せめてそのような身内にこそ、「心を打ち明けられる人」がいるということが生きる上で大変に重要なのではないかと思う。自分の中だけに「心の丈」を溜め込むと、何事でもやがて淀んでしまい疑問や苦しさだけが胸のうちに逡巡することになる。「話す」とは「放す・離す」にも通じるとよく云うのであるが、悩みや疑問は「はなす」ことを忘れないことだ。澄んだ水でも一箇所に溜め込めばやがて腐るように、「思い」を滞留させてはなるまい。我々の細胞がいつも新陳代謝をくり返して生命維持されているように、「心の内」に濁ったものを溜めてはならない。このような発想から「忌憚なく」という語は、使用されるようになったのだろう。だが「忌憚なく」と「打消の語を伴って用いられる。」というのは「忌憚ある」機会が社会には多いということの裏返しのようにも思われる。

欧米の文化に比べて、日本では特に「忌憚ある」機会が多いように思う。「思いの丈」は「言わない」でおくことが美徳とされ、水面下で暗黙に「わかる」のをよしとする。かつてよく使用された「空気を読め」という語は、この文化的背景を露わにした流行語といえるだろう。だが本当に暗黙な「空気」を、その場にいる全員が共有することなどできるのだろうか?「以心伝心」だとか「物言わぬ花」(「美人」を「物言う花」というのに対して、草木の花の称。『日本国語大辞典第二版』)という類の語彙が見出せるのも、こうした文化の表れだろう。欧米の場合、誰かが一定の主張・発表などをしたら、必ず「質問」をする習慣を持つのが一般的だ。相手の「考え」を尊重していればこそ「質問」すると見なされるわけで、「物言う」ことは「よく聴いていた」ことと同義だ。社会において自然な「対話」が成立する土壌が、欧米社会の教育・文化の根底にあると云うことだろう。「言わない」「言えない」でいると結局は相手の為にならないわけであるゆえ、向き合う相手を尊重していないことになるのを心得るべきだ。

「誤りを直さないことを真の誤り」と云う
「出る杭」などと否定的な語もある文化の中で
せめて夫婦や親子のうちでは「忌憚なく」が平和な家庭への道である。


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