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事情を知らぬ人が読んでも文書は

2021-09-25
文脈で「自分たち」だけがわかるのでは
レポート・卒論を書く学生らに指導すること
誰が読んでもわかる文章を書く

先日、ある会議に出された事務文書において、「・・をーーに推薦することが承認された。」というものがあった。「・・」「ーー」はいずれも人物呼称が入る。初めに読んだ際に「・・」の人物を「ーー」という役職に「推薦する」のかと解釈し、大変に違和感を覚えた。その場で文書訂正の発言をしたのだが、声に出して説明するうちにすぐ、「・・」の人物を「ーー」の元へ向けて「推薦する」のだと気付き、意味の確認をした上で「読み間違えていました」と発言してその場を終えた。会議全体では「特に問題はない」という雰囲気であったが、「解釈の多様性」などのことを普段から考えている身としては大変に気になった。要点は助詞「に」の使い方である。「ーー(という役職)に」とも解釈でき、「ーー(の立場の人の元)に」とも解釈できるわけである。「ーー」が「目的」にもなれば、「ーー」が「対象」とも解せる。

短歌ではこのような助詞の機微によって、多様な詩的世界が拡がることが少なくない。それだけに助詞の選択は、生命線といってもよいほど難しい。むしろどれだけ「説明的」に明確にしないかが、短歌を創作する上で心がけることだ。短歌の批評で「説明的」とか「散文的」と言えば、「詩になっていない」と言っているわけで批判の対象である。名歌ほど多様な解釈ができ、一様な解釈に落ち着かない懐の深さがあるものだ。牧水の有名な「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」の歌も、「にも」と表現されているが「白鳥」が「空」になのか「海」になのか、どちらに「ただよふ」のかは読者の想像次第で多様な解釈ができる。「空」「海」という単純な「場所」なのか?より哲学的な場所の持つ含意があって「目的」なのか?「白鳥」が何羽いるか?という問いも含めて多様に解釈できることが、この歌が名歌中の名歌とされる所以である。助詞で文章成分をつなぐ膠着語(対立する概念は「孤立語」で文型で成分の役割意味を示す言語)である日本語の特徴を、最大限に活かしたのが短歌という文芸であるといってよい。だが事務文書で当該の状況をまったく知らない人が読んで、解釈の多様性があってよいものか。周知の内輪ゆえに当該人物を知っているから解釈が定まっているだけで、まったく知らない人が読んだら「読み間違う」ことがあるはずだ。僕などは学生のレポート・卒論を読む際には、当該の学生を知らない立場で文章を評価するよう心がけている。もちろん僕たちは論文を書く上で、自分のことを何も知らない人に対しても説得力のある文章を書くことを心がけているプロなのだから。

こうして小欄の文章を見直すといくつか助詞の訂正が
それでも「内輪話」になっている箇所があるかもしれない
知っている人が読めば「こうだ」とわかり、知らない人が読めば一般論などはよくあるのだが。


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