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新しい朝がやって来る

2021-09-13
「新しい朝が来た 希望の朝だ 喜びに胸を開き 青空あおげ
 ラジオの声に  健やかな胸を この香る風に開けよ それ 一 二 三」
(『ラジオ体操の歌』より)

「今日」たとえどんなことがあろうとも、必ず「新しい朝がやって来る」ものである。時にそのように思えない惨禍に、見舞われることもある。9.11から20年、あらためて様々な人々の生き方があることを報道を通じて知ることで、こんなことを考えた。同時に既に小欄に綴ったが、この「20年間」を自らはどう生きて来たか?それを各自が胸に手を当てて考えるべきことだろう。こうすればよかった、ああしておけばよかった、人それぞれに後悔はあるだろう。だがそれにめげることなく、日々に「新しい朝」を信じて起き上がり、「今日」を精一杯に前向きに生きるかが肝心だ。自らが歩んで来た道は物理的現実的には変えられようがないが、「新しい朝」においては、過去をどのように捉えるかでこれから先の生き方は変えられるものだ。短歌を創ると「過去も新しくできる」というのは、こうした考え方を言語の上で成し遂げるからだろう。

最近「新しい朝がやって来る」という言葉が、脳裏に響いている。考えてみれば、「ラジオ体操の歌」の唄い出しの歌詞である。幼少の頃は夏休みなると、早朝に町内会のお寺に集まり「ラジオ体操集会」を2週間ほどはやっていた。「夏休みでも子どもらに規則正しい生活を」といった配慮もあったと今にして思う。面倒を見るのは町内会の人々で、その中に体操を朝礼台上で見本として行う聾唖の青年がいた。人々は彼を「エーちゃん」と親しみを込めて呼び、笑顔が大変に愛くるしかったと今でも思い浮かべることができる。僕が幼少ながら衝撃を受けたのは、「ラジオ体操の歌からです。」という時だった。「エーちゃん」は首から下げた「ラジオ体操カード」の裏にある歌詞を見ながら、一生懸命に口を動かし曲を「唄っている」のだった。もちろん声は出ない、正直なところしゃがれ声にもならないような微かな呼気に僕は歌詞の「ことば」を読み取った。自分が正常に声を出せることが、決して「当たり前ではない」ことを実感した。毎日必ず「エーちゃん」に、「新しい朝」は来ていたのだった。

今日も「新しい朝」がやって来た
僕は今、小欄を書くことで「健やかな胸を この香る風に」開いている
人々が集まれなくなっている今、子どもも老人も貴重な出逢いを損ねないようにせねばなるまい。

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