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杞憂そして鬱積とならぬように

2021-09-12
「空が崩れ落ちてきて、身の置き場がなくなる」
古代中国・周の時代の「杞」国に人が寝食を忘れて「憂」えた
鬱積は日常を暗くするだけだ

「杞憂」の故事は、よく高校の漢文教科書などにも採録されることも多いが、人間は「心配をする動物」であることをよく表現した故事成語である。現代にして我々は地球という太陽系の惑星に住んでおり、大気圏に空気があることで生存し、重力があることで地上で立って生活ができることを概ね理屈として理解している。だが地球儀を頭に思い浮かべながら、遥かなる丸みを帯びた水平線を宮崎の海に見たりすると、果たして「海水がこぼれないのはどうしてか?」などと母が口にすることがある。「当たり前」で済ませればそれまでだが、実は正確にその原理を説明できる人は少ないのではないだろうか。まして古代・中世に「天動説」が考えられた頃の人間は、大空を動く太陽や月がそのうち地球に落下してくるのではないか?などと憂えた人もいるだろう。それも長い地球の歴史を考えれば決して「杞憂」ではなく、大隕石が地球に落下して巻き上がった大量の塵が地球を覆い尽くし、地上の気温が極端に低下して氷河期を迎え恐竜などが滅びたのだという説もある。科学が進歩したとされる21世紀において、僕らは何をどこまで心配したらよいのだろう。

もし今、地球そのものが中心の核やマントルの異常な流れが生じ大爆発を起こしたら人類のすべてが「無くなる」のか?と子どもの頃に図鑑を見て考えたことがある。だがその心配をするより、人間の生きる時間が地球の歴史からしたら一瞬の灯火のように儚いものだと文学を読んで知った。最近でも母が物事を心配し過ぎだと思いきや、自分の胸に手を当ててみると小さな鬱積が心の中で逡巡しており、そのことでさらに些細なことが気になってしまう悪循環に陥ることがあるのを発見した。誠に「血は争えない」というのだろうか。もうすっかり頭の中を「空っぽ」にしたい、などと思うこと自体が鬱積となっていることにも気づく。家族の将来をはじめ、他者の些細な反応、公表される情報の書きぶり、Web上の反応等々を気にしていると、日常の生活で大らかで和やかな顔ができなくなってしまう。鬱積は「怒った物言い」を誘発し、表情から笑顔が消える。これは他者の気分も害すると同時に、自分自身の精神を傷つける。考えてみれば「空が落ちてくる」ことを憂えることと、そんなに変わらず根拠のない心配事ばかりだ。可能性があること、希望につながることへ、信じた「自分」を疑わずただ前に進むのが人生だと、昨日の小欄に自ら書いたはずではないか。

憂えは蓄積させず「はなす」(「話す」=「離す」=「放す」)こと
「幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく」(牧水)
心配してもしなくとも、地球は「今」の時間を先に進めていくのだ。


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