あれから20年ー「創る」ための苦痛
2021-09-11
20年目の9.11その時、どこで何をしていたか?
記憶のある出来事からの月日
「その時」自分がどんな状況でどこで何をしていたか?はっきりと記憶に残るほど刻まれた世界的な惨事、さらに冷静に考えれば、自分はどんな境遇で何を求めていたか?そして「この20年」でどのように変わってきたのか?節目を迎えてあらためて考えてもみたくなる。米国現政権は、アフガンからの撤退を完了し「20年間の戦争を終えた」としている。だが報道を見る限り、容易に「平和」が創れるわけはないことを痛感する。故・中村晢さんの思いを汲むならば「平和」とは取って付けた「看板」なのではなく、一人ひとりの尽力の積み重ねで「創られる」ものであることも実感する。世界はこの「21世紀」という看板を背負った時間の五分の一に、何を積み重ねたと云うのだろう。日本ではちょうど20年の中間点で「東日本大震災」があった。「第二の敗戦」とまで言われたこの惨事からの10年間、ここ1年半で「新型コロナ」に向き合うことで、公の「復興」などと云うのもまた「看板」であることが判った。当事者にしかわからない「苦痛」とどう向き合うか?いくら時間が経過しても、癒されないものがあるのも事実だろう。
「未来」は「待つ」ものでも「希望」するものでもなく、「創る」ものだろう。個人的に20年前には「博士後期課程」に在学、初任校から自ら志望して二校目の公募採用に合格して、新しい何かを「創ろう」としていた。「創る」の字源を考えるとき、文字の右側の「刀(りっとう)」で「素材に切れ目を入れる」という説を支持している。「平和」はもちろんだが、自己中心的な利欲に安住するのではなく、自らの可能性に鋭く「切り込む」必要があるということだ。「切り込む」ということは、それ相応の「痛み」を伴う。だが「苦痛」に耐えながら、周囲の人々に支えられて「創り」つづける。高校教員として学力増進・進学実績には大きく貢献しつつ、2009年には学位取得、そして10年前の「東日本」の3月に周囲の反対を押し切り専任を辞した。これがまた僕自身の新たな「切り込み」であり、大幅な減収を憂えながら東京での大学非常勤生活が始まった。「東日本直後」だったので、大学の「授業開始」も1ヶ月遅れ、GW以後からだった鮮明な記憶がある。共済保険がかろうじて継続維持できる2年間のうちに、公募採用によって「第三の切り込み」が現実となる。生まれ育った東京を離れ、宮崎の地で短歌に向き合う「いま」があるのだ。
「創る」ことには苦痛が伴う
「苦痛」「苦言」を避けた先に、21世紀は「未来」でなくなる
あれから20年、誰しもが自らを省みて「現状」でいいのかとその胸に手を当て考えてみる。
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