己を確かめるおしゃべりの効用
2021-09-10
「今」自分はどんな状況に置かれているか?他者と話して初めてわかること
社会も政治も他愛のないことでも
幼少期はどちらかというと内弁慶で、幼稚園とか小学校の低学年頃までは他者とあまりしゃべらない・しゃべりたくない子どもだった。家で絵本を読んでいれば満足で、会話の相手は絵本に登場して来るキャラクラーだった。また幼稚園の活動として母が製作した指人形が好きで、自分の手で動かしながら何事かを語り掛けていた記憶もある。外に出す声よりも、心の声を絵本という舞台で発していたような子ども時代であった。だが、そのような心内対話が好きだったことが、今にして文学研究の入口にもなった気がする。心に思うことは、何らかの形でことばにすべきである。それこそが、人間が人間として生きる上での基盤ではないのだろうか。その後、小学校中学年ごろから、ドリフの真似をするようになって他者と楽しく会話することを覚え、時に道化師のように自己防衛し、高学年になると学級で発言することに楽しさを覚えた。中高時代は部活動に明け暮れたので、未だ硬派を貫いた感はあったが、大学入学とともに社交家としてデビューしたような精神的な経歴を振り返ることができる。
母と昼下がりにあれこれおしゃべりしていて、こんな自らの過去を思い返した。内弁慶だといった幼少の頃は、母とともに近所の商店街に買物に行くことが多かった。すると、八百屋・肉屋・魚屋・豆腐屋、そして一番母が親しい惣菜乾物屋で(まるでスーパーの店内のように、この順番で商店街が一巡りできる)、それぞれに世間話のような「おしゃべり」が長いのが子どもとしては気になった。内弁慶の視点からすると、「なぜ買物に必要のないことまでしゃべるのだろう?」という疑問を心の中で抱いていた。だがそのおしゃべりの時間があることで、各お店にどのような品物がどのように置かれ、売る時はどのようにするかなど、観察眼が深まった気もする。今の時季にはどんな野菜があるか?とか、秤の上の肉・・・gとはどのくらいか?また水中に沈む豆腐をどのように上手く切るか?などを入念に見ていた気がする。母のおしゃべりは一番親しい惣菜乾物屋のおばさんと特に長時間に及ぶので、そのお店のどこに何があるか?をたいてい心得ていた。お店のショーケースにおじさんが出来たての湯気の出た煮物を持ってくる際の手際なども憶えている。大人になって、母が買物でおしゃべりする正当な理由がわかった。「今日」の自分はどのように生きているか?を日々確かめるための誠に大切な商店街巡りなのであった。スーパーでは叶えられないおしゃべりな買物、それでも僕は馴染みの店員さんに声を掛けたくなるのは、母親譲りであるのだと自覚している。
どこでも誰しもが優しい宮崎
「だれやみ」も酒のみならず肴とおしゃべりが必須
「今日の自分」を確かめるためのおしゃべりが大切である。
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