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尊きは個々の命

2021-08-16
「尊い」とは?
「高貴である。品位が高くすぐれている。すぐれて価値がある。
 あがめ重んずべきである。大切である。たっとい。」(『日本国語大辞典第二版』より)

76回目の終戦記念日。今年は五輪放送の影響などが指摘されているが、TV各局が先の第二次世界大戦に関する特集番組を放映することが少ないことを実感している。少なくとも「反戦・平和」への思いをこの日にあらたにし、僕たちは二度とあのような惨禍が起きぬように誓うべきだろう。よく学校で子どもが思わしくない行動をすると、「反省文」を書かせるということがある。だが「文章」として書く内容は、果たして真の「反省」になっているのか?と思うことも少なくない。建前の「反省」ではなく、真に自らが犯した行動に悔い改める決意を持つかどうか?言葉は時として表面的でもあり、時として真意を露呈させるものである。このような意味で終戦に関連して語られる「尊い犠牲」という言い方に、毎年のように大変に違和感を覚えている。「(戦争の)犠牲」への修飾語として「尊い」というのは一見、戦争で犠牲になった方々を追悼しているように聞こえるが、よく考えるとそうではないことに注意深く気づくべきではないのだろうか。

冒頭に「尊い」の辞書的意味を引用した。「尊い犠牲」とは、「すぐれて価値がある犠牲」「あがめ重んずべきである犠牲」ということになる。さらに「犠牲」の見出しで同辞書を引くと「すべてをなげうってつくすこと。自発的ではなく、強制されるものに、また偶発的な事故や自然災害に出会った場合についてもいう。」もうおわかりだと思うが、特に「強制」されて「すべてをなげうってつくす」ことを、果たして「尊い」と言えるのだろうか?そう、尊きは個々の命であって「犠牲」ではない。基本的な辞書的意味を適用するならば、「強制され犠牲となった尊い個々の命を悼み」というあたりの表現が妥当ということになるのではないだろうか。今現在も全国で、大雨により尊い個々の命が失われている。ニュース映像で「死者◯人」と見るのみならず、自らが自然災害に遭ったら、愛する人々が命を落としたら、と当事者の立場で考える必要があるだろう。新型コロナ感染拡大についても、「災害級」という表現は医療関係者が警告として出したはずである。決して為政者が「自然災害のようで自己責任として仕方ない」という言い訳には決して置き換えられるべきではない。言語表現の節々にこそ、発言者の真意が隠されていることを僕らは注意深く拒み続けなければなるまい。

個々の命こそ宝
今も世界中から聞こえる悲しみの声に心を致す
眼の前の人の命を尊んでこその平和だ。


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