スポーツと文化のこころー社会の成熟を考えて
2021-08-09
「文武両道」という信念考えてこそ高次元のパフォーマンスが
スポーツと文化に彷徨うこころ
TOKYO2020閉会式を観ていて、何とも言葉にし難い虚しさが感じられた。仮にオリンピックを「世界的なスポーツの祭典」だとすると、開催国が式典で示す存在価値が強く意識されたからだろう。世界に誇りをもって示すことができる「この国の文化」とは何か?次期開催都市のパリのデモンストレーションがあったことで、余計に「文化」という意味での深層に何が根ざしているかを感じざるを得なかったのだと思う。あらためて世界的なパンデミック下で開催されたTOKYO2020の開催都市のある国の住民として、「今こそこの世界において、何をどのように考えて今後を生きるのか?」を一人ひとりが深く胸に刻むべき時ではないかと思う。同時に自分自身が何に根ざして生きてきたのか?東京1964から57年の時を経て、自分自身が何をどのように生きてきたのかを回顧させられるような「灯台」のような意義もあったような気がしている。あらためて世界と地域の人々と手を携えて、自分に何ができるかを考える貴重な機会でもあった。
幼少の頃から「本好き」「絵画好き」であった僕が、次第に「剣道」「野球」「器械体操」と小中高では「文武両道」を信念とする生き方を選んだ。大学でも「運動」をという思いも少しはあったが、そこで「文学」「書道」へと志向を転換した。「文武」の断層に様々な思考的彷徨をしながらの4年間であった気がする。学部卒時に大学院進学を迷った挙句、現場好きなこともあって高校教員となると、赴任校が全国レベルの部活動があったために「文武」のメーターが再び「武」に傾くことになった。汗臭いロッカー、運動に青春をかける生徒たち、全国大会で優勝する喜びを麻薬のように体験してしまった僕は、部活動や応援に20代の青春を費やすことになる。しかし10年もするとそのままの青春が人生でやりたいことなのかどうか?大きな疑問に苛まれた。あらためて「文学研究」の道を遅ればせながら志向することになる。何事もそうであるが「プロ」となるには「専念」する時期が必要になる。中高教員をしながらも修士・博士後期と進学して歩んだ研究者への道、自ずとスポーツは「趣味」の領域に押し込んでおく必要もあった。今思えば、修士修了して博士後期入学をしたの2000年シドニー五輪から、アテネ・北京・ロンドン・リオデジャネイロの5大会についての記憶は甚だしく薄い。そして今、あらためて「文学」を中心に据えながらも批評的にスポーツが観られる環境が整った。この国の「文化的次元」を憂えつつ、閉会式を批評的に捉えるのもそのためだ。
文学と社会を結びつける短歌
僕が経験してきたことでしか成し得ないことは何か?
PARI2024にもぜひ行ってみたくなった。
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