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私が原稿を読まない理由ー「聲」こそいのち

2021-08-07
「読んでいるうちは内容は伝わらない」
「文字」に心はなく「聲」にいのちあり
「文章」を「音」にするだけなら機械の方がまちがわない

式辞・講演・研究発表・スピーチなど、公で一定の時間を話す機会がある。その際に僕は、基本的に「原稿を読まない」という信念がある。その理由は「文字を読んでいるうちは聞いている人々に伝わらない」と考えるからである。所謂「棒読み」という慣用句があるが、『日本国語大辞典第二版』によれば、「(1)漢文を、返点(かえりてん)など付けないで字の順に読むこと。(2)文章を、区切りや抑揚をつけないで一本調子に読み下すこと。」とある。ここで対象とする意味は、もちろん(2)であるのだが、その用例が『俳諧師(1908)〈高浜虚子〉「金閣や銀閣の小僧がする棒読みのやうな説明とも違うが」とあって、明治41年という「聲の文化から文字の文化への移行期」であるのは興味深い。以後、大正・昭和・平成と自覚なき「文字の文化」が優勢となり、「文字でそれなりのことが書いてあればどんなに棒読みしても伝わる」という誤った理解が一般的になってしまった。学校の「国語」の授業でも、「文字内容」の「意味」を読み取ることが何よりも大切で、「音読」はいかに空虚に「棒読み」しようとも問題にされない偏向した文化を形成してしまった。デジタル化の波の中でも、多くのTV映像は話す人の言葉を「文字」で画面表示し、話した内容はその「聲」よりも後にHPなどに掲載される「文字」がよければそれでよいという過誤の認識が一般化している。

前述したような文化的偏向の背景があって、僕は「文字を読まない」ことを信念としている。長めの式辞・スピーチなどは時間制約の遵守のため、その「原型」として「文字」にしないわけではないが、数日間の仕込みで身体的に語れるようになるまで「聲」によるリハーサルをくり返す。その過程では、「文章」の「文字」通りでは話すリズムが悪い箇所が次々と推敲されていく。また「聲」にすると言い回しが誤りやすい単語が浮き彫りになってくる。場合によると、他の語彙から「聲」にしやすい語を選択するなど推敲がくり返される。こうしているうちに、脳内に箇条書きメモができ上がり、本番では聴衆を見ながら式辞やスピーチができるようになる。わかりやすく言うならば、落語で「原稿を読む」などはあり得ないことで、座布団の上に座った身体一つから噺が紡ぎ出される。このような過程は「文字の文化から聲の文化への遡求作業」ではないかと思っており、落語の師匠に1年半ほど指南を受けて噺ができるようになった体験が創り出してくれた身体的能力である。学会発表や講演でも基本的な資料を提示すれば、それにまつわる「噺」が研究によって身体化されているので自然と出てくるという塩梅である。世界の為政者を見渡せば、オバマ元米国大統領のスピーチは言語の壁を超えて心に伝わるものがあった。コロナ禍の現在、英国ジョンソン首相や独国メルケル首相のスピーチには「本気度」が伝わるものがある。もちろん、彼らの演説にも「原稿(文字)」があるはずだ。政治的に誤った方向性を”話の流れ”で示しては大きな問題となるはずであろうから。だが少なくとも、仮に他人が作成した原稿内容であっても、自らの政治信念において適切な内容であるかの擦り合わせをすることで「自分の言葉」になるように仕上げているに違いない。「文字」であるのをよいことに聴衆の願いに正面から応えない公的な「繕い」や「虚飾」が原稿内容にあるゆえ、根幹となるスピーチの理念が抜けても自らが気づくことはないことが証明された。「糊がついていた」とは「下読み」さえも一度も為されていないことを明かしたわけで、スピーチ内容への冒涜と言っても過言ではない。

「人に伝える」ことを疎かにした結果
我々が直面する社会的危機が訪れている
「聲の文化」の研究者として声を大に訴えたいと思う。


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